我は我の所有する所に在らず、我の所有する所も我の中に在らず、これが互いの相である。意根は時に色蘊を我と見做し、受想行識蘊を所有せざるものとし、我と我の所有する所が互いに融合していると認識する。意根は時に受蘊を我と見做され、色蘊想行識蘊を我の所有する所とし、受蘊が他の蘊と互いに融合していると考える。
然るに実際には、色蘊は我にあらず、我の所有する所と見做される受想行識蘊も我の所有する所にあらず、皆我と関係なく、我にあらず、全て断除すべきものであり、これらの機能作用を真実不滅のものと認めてはならない。五蘊を我と見做すのは邪見であり、我の所有する所と見做すのも同様に邪見であり、皆破らるべきである。五蘊に我なく我の所有する所もないという正見を樹立してこそ、漸く生滅を超越することができる。
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