盗みとは、与えられざるものを取ることであり、自己の所有に非ざるものを己がものとしようとする行為を指します。一切の自己に属さざるものを得る行為は全て盗みに含まれます。その範囲は如何なるものでしょうか。
例えばある団体において甲が最優れた者であるにも拘わらず、乙が自らを最優れと称する場合を考えます。乙が最優の名誉を自己のものとし、甲の名誉を占有する行為は、果たして甲の名誉を盗んだと言えるでしょうか。
明らかに甲が成した仕事を乙が自己の功績と称する時、乙は甲の業績を盗んだと言えるでしょうか。団体において甲が有する権力を、乙が無自覚に行使した場合、乙は甲の権力を盗んだと言えるでしょうか。この種の盗みは虚言とも言え、一つの身口意の行為が二つの戒律に触れ、同時に二罪を犯すことになります。
そもそも五戒は身と口のみを対象とし、意には及びません。如何なる意を抱こうとも、身口が犯さなければ戒を破ったとは見做されません。故に五戒は心を戒めず、身口のみを戒める小乗戒に属し、身を正し口を慎むことができれば、人としての修養は整い、来世も人間界に再生し得ます。しかし悟りを開くには菩薩戒を受け、これを守る必要があります。
五戒を厳守すれば徳を備え人格を修めることができます。五戒を守れなければ人格は不完全で修養不足、人徳を欠くことになります。凡夫たる者の人格修養が不十分であれば、我見を断ち聖賢の域に達し人を超越することは不可能です。
五戒すら遵守できず受持する勇気もない者が、如何にして出家者の数百条に及ぶ戒律を守り得ましょうか。多くの在家居士が出家者を誹謗するも、己はいかがでしょうか。世俗を捨て離れる出家者の心行と、数百条の戒律に縛られるその覚悟は、到底比較になりません。
五戒は五条のみと簡素に見えますが、実は容易ならざるものです。完全に五戒を守り切る者は極めて稀です。特に盗戒と妄語戒は遵守が難しく、その内実と範囲を明確に理解している者は少数です。
五戒を守るとは即ち人としての道を全うすることです。人たる道すら歩めぬ者が、来世の三悪道云々を語る資格はありません。多くの者が五戒も受けずに悟りを得たと自認しています。小乗の身口の戒すら守れぬ者が、如何にして大乗菩薩の心意戒を守り得ましょうか。意を制することは最も困難で、念頭に悪業を生じさせぬことは至難の業です。瑜伽師地論の菩薩戒は更に遵守困難で、煩悩を断たぬ者が受け持つべきものではありません。これは煩悩を断った地上菩薩の守る戒めであり、衆生を利益する為なら身口の行為を問わず敢えて行わねば戒を犯すことになります。このような戒は地前の菩薩ですら遵守不能であり、まして凡夫が学び受持する菩薩戒体が何処から得られるのか、甚だ疑問です。
身口は六識の所業であり、意は意根の心行です。意根を制すれば身口は必ず犯しません。逆に意根の想念が不正でも、意識で強制抑制し清浄を装えば身口は犯さず、五戒を破ることはありません。しかし意根を制圧し、煩悩を断って自然に清浄を保つことは極めて困難です。
煩悩を断たねば意業は必ず犯されます。故に煩悩を断つとは意根の煩悩を断じ、意識の強制なく自然に清浄を保つことを指します。意識の煩悩のみを断つのは単なる抑制に過ぎず、真の断煩悩とは言えません。意識が油断すれば意根の煩悩が忽然と現行し、堤防が決壊する如く氾濫するのです。
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