例えば白骨観において、想像された白骨は、意識心の思惟分析作用によるものであり、白骨的定果色が現れず、三昧の成就もない。故にこれは虚妄の中の虚妄である。自ずから現前する白骨は、意根と意識が同時に証見するものであり、定果色が現れ、三昧の境界である。これもまた虚妄ではあるが、想像によるものよりはるかに真実に近い。
意根が自ら証得した法には一定の真実性があるが、意識が推論によって導き出した法に真実性はない。故に身心世界にほとんど影響を与えず、従来の心理状態と大差ない。修行の過程と結果は全て身心世界を変化させるもので、無始劫以来初めて仏法に遇い、信受修行を始めた時から、身心世界は変容を始める。真に我見を断じて初めて明らかな転換が生じ、三果に至れば更に大きな変化が現れ、その後も次第に変容を続け、仏陀に成った時、三十二相が現れ、身心世界の転換は完結して再び変化することはない。
身心の変化は全て意根によって促される。意根がどれほど証得したかによって、その分だけ変化が生じる。未だ証果を得ず我見を断たない三十七道品の実修過程においても、身心は徐々に変化を始める。真に仏を信じながらも未だ本格的に修行していない者でも、身心にある程度の変化が生じ、年ごとに変容し、遂には縁ある人々を感化して仏法を信じさせるに至る。ある者が言うように、三果を証得して初めて身心が変化し始めるのではない。衆生の身心の顕著な変化は我見を断じる所から始まり、三果において初禅定を得て煩悩を断除する時、身心は大きく転換し、前後が明らかに異なるのである。
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