衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月03日    日曜日     第1 回の開示 合計2320回の開示

布施の福徳は無量大

ある人が言うには、世の中のすべての法は幻化した仮の相であり、無生であるならば、私たちは努力して何かをすべきではなく、何をしても意味がないという。このような見解は正しいのでしょうか。

もちろん正しくありません。仮相を借りて修行するほかはなく、成就する前には非常に努力して仮相の上で修行する必要があります。仏道を学ぶ道程で行うすべての善行は、悟りを証得するため、無生を証得するため、無相と実相を証得するためです。証得した後に初めて真に無生を知り、解脱して仏となることができます。有為は無為のためです。ですから、無為を成し得る能力を備える前に、意義ある有為は全て努力して行うべきであり、何をするのも自分自身のために行い、自らが利益を得て、無為の果実を収穫するのです。表面上は自分が他人を利益し、他人が自分の助力を得たように見え、自分が三宝を護持し、三宝と衆生を利益したかのようですが、実際には自分が最大の利益を得ています。もし三宝が利益を得ず、衆生が利益を得なければ、自分が行ったすべては無益で、無駄な努力に終わります。いわゆる利益とは、三宝と衆生を利益した基礎の上に初めて現れるものであり、他人が利益を得なければ、自分も福徳や功徳、智慧を得ることはありません。

例えば衆生に布施すれば千倍以上の報いがありますが、相手が受け入れなければ一つの報いもなく、相手が利益を得なければ何の報いもありません。虚空に一万元を施す場合、虚空は受け取ることも利益を得ることもなく、自分が一万元を失ったのと同じです。お金を失うことに何の報いがあるでしょうか。自分は一銭の報いも得られず、ましてや千倍万倍の報いなどありえません。大海に一万元を施す場合、大海は受け取ることも利益を得ることもなく、一万元を破壊してしまいます。それでは自分は一万元を無駄に浪費したことになり、故意に印刷された紙幣を破壊すれば罪すらあります。大火に一万元を施せば、火に焼き尽くされ、布施は無益どころか罪を招きます。

ある人々は自分の布施を忘れず、常に人に恩を施したと思っていますが、実際には相手が自分に恩を施しているのです。もし他人が自分の施しを受け入れてくれなければ、どうして千倍万倍の報いを得られるでしょうか。どうして少しずつ積み重ねてあれほどの悟りの福徳資糧を得られるでしょうか。仏陀は衆生が多く福徳を積めるよう、涅槃に入る際にあえて数人の阿羅漢の弟子たちに形を留めて世に住まわせ、衆生の供養を受け入れ、衆生に大いなる福徳を培う機会を与えました。それらの阿羅漢は実は人々の供養を受けたくありません。第一に面倒を嫌い、第二に自分の福徳を消耗するからです。しかし仏陀の弟子として、第一に仏陀の取り決めを尊重し、第二に衆生を利益するため、彼らは無余涅槃に入らずに世に住んでいるのです。

ある人々は法施を行い、縁ある人を正規の修学に導くために記事を投稿し、まるで師匠のために仕事をしているかのように感じ、他の人が利益を得て自分は時間と労力を費やし、損をしたように感じます。自分が法施を行った結果がどれほど殊勝で、最終的に得られる利益が計り知れないことを理解していません。まさに自分が行ったこれらの功徳と福徳によって、今世後世の修学過程において速やかに仏道を成就し、無量劫の生死輪廻の苦しみを免れることができるのです。この果報は虚空のように多い財宝でも換えることができず、得られる果報は語り尽くせません。そして自分が法施で利益を与えた人々は、自分自身の福徳・功徳・智慧には遠く及びません。三宝と衆生が自分の布施から得る利益が大きければ大きいほど、自分の福徳と功徳も大きくなり、将来の智慧も最も高くなります。目先の利益に囚われず、真実の観察を行い、自分の未来と最大の利益を考慮すべきです。

菩薩の福徳は阿羅漢の万倍・億倍・無量倍です。菩薩は生々世世にわたって衆生と共にあり、挙手投足の間に衆生を利益し、同時に千万倍・億倍・無量倍の福徳と功徳を獲得するからです。ですから菩薩は大富の長者であり、その富貴は世の全ての人々が及ぶところではありません。福徳と智慧が円満に具足した時、八相成道して天人師・仏世尊となるのです。

——生如法師の開示
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