妄とは虚妄の意味であり、楞厳経において妄見は別業妄見と共業妄見に分かれると説かれ、いずれも衆生が世俗界において持つ見解、虚妄の法を見る見解を指します。妄見の一義は虚妄なる七識の見解、もう一義は七識の見る六塵の法がすべて虚妄不実であることです。七識の見るものが如何にして虚妄不実であるのか。虚妄の究極的かつ根本的な意味は何を指すのでしょうか。
楞厳経において仏は妄見の定義を説かれました。眼病を患う者が燈火の下で赤い円形の影を見るが、眼病なき者は燈火のみを見て赤や黒や黄の円影を見ない。燈火の下に本来円影は存在せず、眼に病あれば虚妄に円影を見る。眼病を妄見と呼び、存在しない法を虚妄に見るが、この法もまた虚妄不実です。仏はこの喩えをもって、衆生の心に無明の病あるが故に山河大地・宇宙器世間の六塵境界や六道衆生、さらに衆生の生老病死を見ると説かれ、無明による見解を妄見とし、妄見の見るものはさらに妄であるとされます。諸仏に無明の病なく、見るもの全てが真如の相であり、妄法も世俗法も存在しません。無明なき第八識如来蔵も妄見なく、世俗法を見ず、虚妄相を見ず、六塵相を見ず、衆生相を見ません。
もし人が自ら真に六塵境界を見、汝我彼女を見、衆生を見、世俗法相を見たと主張するなら、これは無明妄見です。世俗界に実在する法相を見ることは無明妄見であり、世俗法を実有と見做すことが妄見です。妄ならざる見は何を見るか。真如仏性を見、不生不滅の実相を見る、すなわち諸仏の見る如きです。
真法如来蔵を学び、次第に妄法の虚妄を見抜き看破し、妄法の本質を看透すれば、次第に妄見無明見を減じ、煩悩と苦痛を漸減し、次第に仏陀の智慧に趣向し、最終的に仏陀の如く無明を尽すに至ります。これが歓喜の源泉、解脱への光明大道であります。
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