衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月10日    日曜日     第1 回の開示 合計2331回の開示

心法は如何にして色法に触れることが可能か

心法は七つの識であり、色法は五根と六塵である。根・塵・識の三者は三界の法に属し、三種の境界に分かれる法である。界とは境界の意である。境界が異なれば、世俗界の法則に従えば、相互に接点がなく融合できず、和合して作用することができない。実際、識界と色界は異なる境界の触であり、世俗界の手と手の触れ合いや、手が物質色法に接触するような触と理解してはならない。甚深極まりない唯識種智の法は、世俗法の観点からは如何なる理屈でも説明できず理解し得ず、世俗界の思考様式では永遠に唯識の問題を解決できない。第六・七識を転じて識を智と成し、世俗界の識的認知様式を非世俗界の智的認知様式に転換して初めて、唯識種智の問題を漸次解決できるのである。

如何にして唯識種智の様式で根・塵・識の三者和合の触を思惟すべきか。我々は知るべきである、根・塵・識の三者は境界を異にし法の種類も異なるが、共通する部分がある。即ち全て如来蔵中の七大種子によって構成形成され、七大種子は平等並列の関係にあり、属性は異なるが境界がなく完全に融合相触し、衆生の心に随って一切の法を出生する。楞厳経に仏の説かれた如くである。これによって異界の法が相触し得るか否かの問題を容易に理解できる。

七大種子は全て形相なく、世俗界の物質色法のような触に論及できず、故に触不触の問題にも関わらない。従って形成された根・塵・識の三者は世俗法の触ではない。このように説いても多くの者は理解に苦しむ。世俗法と仏法が跨ぐ次元が余りに大きく、甚深の仏法は常に自らの想像を超越する故である。仏の説かれた如く、仏法は推測揣摩によって得られるものではなく、必ず実証して初めて体得できる。

形相なき七大種子が輸送形成する根・塵・識に、形相はあるか。所謂形相とは俗界の肉眼に見える相貌を指す。実際理地より、聖義諦より観れば一切法に世俗界の相貌はなく、全て聖義諦の相であり肉眼では見えず、見るものあれば即ち眚病あり。病眼が空華を見るが如し。楞厳経に仏の説かれた如くである。

識心は形相なく肉眼に見えず、ただ意識によって感知され、最終的に意根をもって同知させる。根・塵は色法であり色あり形相あり、肉眼に見える。根・塵は同種属性の色法であり、手足の触れ合いの如き触が可能である。識心が再び根・塵の触色法に触れるのは、鏡が影像に触れるが如し。影像は実色法にあらず、鏡は触れ現出でき、非実色法の影像が鏡中に出現することを幻現と称す。七識の触れる所は全て非実色法の根・塵であり、全て影像である。故に影像は七識心の鏡中に障碍なく出現し得る。実色法を誰が触れ得ようか。ただ如来蔵のみがこの類の実色法と最原始の色法に触れ得る。

これらの聖義諦の運行法則と規則は、我々が世俗諦の角度からは全く理解も想像も及ばない。故に仏は我々に想像や情思意解を禁じ、戒定慧を具足した後の実証を求められる。ただ実証した者のみが互いに意を通わせ、道を同じくする者が共に謀り共に見るのである。識種子が累積して成る識心が、五大種子が堆積して成る根・塵色法に落着する。種子に何ら世俗界の相貌なきに、形成された根・塵・識に如何にして相貌あり得ようか。最初の原始色法に若し相貌あらば、如来蔵は如何にして触れ識別し伝導し変現し顕現し得ようか。若し最初の原始色法に相貌なきに、如来蔵が顕現する影像色法の色法影像に如何にして相貌あり得ようか。全ては相貌なき法である。根・塵・識の三者は完全に相互に触れ合い、識心は完全に根・塵を顕現し了別し、虚妄の喜怒哀楽悲苦受を出現させる。

根・塵・識は黒匣子の世界の法であり、幻妄不実、病眼の見る所である。

——生如法師の開示
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