衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2020年06月07日    日曜日     第1開示 合計2381開示

第七識所見の帯質境

第七識は第八識の見分 (darśana-bhāga) を縁じ、第八識は本質境を見た後、四大微粒を摂取して最初の影像を形成し、本質境の質である四大種子を帯びる。第七識はこれを見て、自分が見たものだと思い込み、これらはすべて我であると思い、取着の心を生じる。そして第八識によって四大の質を帯びた法を勝義根 (indriya) に伝送し、六識によって了別し執取 (upādāna) する。しかし勝義根に伝送された法は、もはや第七識が最初に見た法そのものではなく、ただ相似しているだけである。六識はこの道理を知らず、ともに真実だと思い込む。第七識と第八識の間の相分 (nimitta) は、一つは第七識の心中に生じ、もう一つは六識の心中に生じる。しかし六識・七識が縁ずる相分には一定の差別があり、六識・七識はこれを知らず、無視してしまう。これも無明である。

相分が勝義根のブラックボックスの中に伝えられ、六識が縁ずる対象となり、縁じた後には六識の心中に現れる。すると六識の心中の相分は、鏡の中の像のようであり、質的な変化が生じて、もはや本質境の質実たる四大種子を帯びていない。これを似帯質と呼び、また假帯質とも呼ぶ。外の相分に相似し、本質境に相似し、真帯質境に相似しているのである。

もし神通力を持つ人がいて、六識をすっかり訓練し終え、一切の六塵の境界に対して如如不動であり、その幻化であることを知り、実用がないことを知っていれば、勝義根のブラックボックスの中の六塵の相分は、六識身に対して何の作用も持たなくなる。高山も大海も六識身を妨げることはできない。なぜなら山水はすべて假の境界、假の相分であり、鏡の中の像であって、実質的な作用を持たないからである。大火が六識身を焼いても、六識は動じない。火で焼かれようが刀で斬られようが身に障りはない。なぜなら火も刀もすべて假の境界、假の法であり、鏡の中の相分のようなものであって、いかなる実質的な作用力があろうか。

衆生はこの道理を理解せず、また禅定も持たないので、境界が来ると心が動いて入り込み、身心が傷つけられる。假の境界に傷つけられるのだから、ばかばかしくないか? 落胆しないか? やるせない思いではないか?

——生如法師の開示
前へ前へ

仏法における詐欺

次へ 次へ

現量と非量

ページトップへ戻る