衆生の苦悩の根源は、真実でない相を見ることにあり、すなわち相を真実の如く見ず、相に執着することである。相を執着し得ないと感じるとき、心に苦悩が生じる。故に苦悩を解決する根本は真実相を見ることにあり、虚妄の相・仮の相・空の相を見ず、相を見る際に正しい知見を具え、誤った見解や邪見がなければ、執着しようとは思わなくなり、こうして苦悩は生じず、当然ながら相から解脱するのである。
如何にして真実相を見て誤謬の相を見ないか。それには相の本質と根本を認識し、知見を世俗の法相に落とさず、法相の世俗的相貌を破れば、表層から深層へと法相の根本と本質を見るに至る。こうして誤謬の見解はなくなり、正真に見れば、法相が根本的に執取すべからざることを知り、相にありながら相を離れ、執着心が消滅し、解脱自在にして煩悩なき境地を得る。
如何にして法相の世俗的相貌を破るか。まず我々は世俗の法相が何であるかを知らねばならない。世俗的に定義される様々な色・声・香・味・触、法相に含まれる様々な形・質・風情・世俗的機能がある。衆生はこれらの機能と風情を実体あるものと見做すからこそ貪着を捨てず、貪り得ると得ざるとにかかわらず苦悩し、楽も苦悩となり、憂愁憤恨も苦悩となり、全ての覚受が苦悩となって心をかき乱し、寂静清涼を得られない。これが苦である。
これらの世俗法相は真に存在するか。もし真に存在するならば、生じず、変化せず、老朽せず、消滅もしない。現に見る世俗法相は全て無常であり、生滅変化する。既然り世俗法相が無常であるならば、即ち空であり、得べからざるもの。既然り世俗法相が空で得べからざるならば、即ち苦である。空で得べからざる故に苦あり、これが苦相である。既然り世俗法相が無常・苦・空であるならば、我ではなく、我の所有にも帰さない。生滅変化する無常の法相を我と見做すのは誤謬無理な知見であり、愚痴の考えである。この考えを断じ滅し、正見を得て執取せず、解脱を得て自在清涼となる。
如何にして真実相を見、知見を世俗法相に落とさないか。我々は明らかにすべきである。一切の世俗法相は本心である如来蔵より生じ変わり創造され、その後如来蔵はこれらの法相を縁とし、かつ了別する。しかし如来蔵はこれらの法相の世俗相を見ず、見るのは法相の種子の組み合わせ相のみである。これらの法相中の各種子の配列状態を知り、常に業種を了別し、業種に従って種子の比率構造を調整し、種子の分布状態を調整する。これにより法相は業種あるいは意根の思心所に従って不断に変化する。
如来蔵が種子を見て世俗相を見ない故、色声香味触法を知らず、内心に世俗法の分別を起こさず、心は清浄で煩悩なく、生死の業を造らず、生死輪廻の苦がない。我々が分段生死苦と変易生死苦から脱するには、如来蔵の如く心中の世俗法相を泯滅させ、法の真諦と本質を見るべきである。こうして心はますます清浄となり、仏心に近づき、遂には仏陀と等しく、無住処涅槃に住し、常寂光土に処して寂滅無為となる。
既然り一切の世俗法相が真実に存在しないなら、何故衆生は見ることができるか。これは衆生の無明によるもので、真実相の上に虚妄見・虚妄想を起こし、さらに虚妄行を起こし、虚妄業を造り、虚妄果を得て虚妄輪廻を受ける。例えれば、明らかに松明が速く揺れているのに、衆生は無明故に松明を見ず、存在しない火の輪を見て実体あると執着し、生死輪廻の苦を受ける。衆生が世俗法相を見るのも同様で、無明故に本来存在しない相を実体あるとし、本来実在する真法を見ず、誤った見解故に生死業を造り、輪廻の苦が絶えない。
例えば夏の炎天に水蒸気が砂浜に反射し、喉の渇いた鹿は錯乱して何もない砂浜に河水を見、執着して近付けば何もない。無明の妄見は衆生に何も得させず、虚妄相を執着した故に生死惑業苦を招く。なんと無益なことか。故に無明を破り実相を見ることが修行の最重要課題であり、最終目標である。実相を見れば無明が破れ、虚妄想は次第に滅し、虚妄相を執取せず、生死業を造らず、惑い尽き業消え、自性のサルヴァジニャーナの海に回帰し、一真法界の寂静涅槃に入るのである。
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