ある人が言うには、この世のすべての法は幻のような仮の相であり、無生であるならば、私たちは努力して何かを成す必要がなく、何をしても意味がないという。このような見方は正しいのでしょうか。
もちろん正しくありません。仮の相を借りて修行するからこそ成就できるのであり、成就する前には仮の相の上で懸命に修行する必要があります。仏道を学ぶ過程でのすべての善行は、悟りを証得するため、無生を証得するため、無相と実相を証得するためのものです。証得して初めて真に無生を知り、解脱して仏となることができます。有為は無為のためです。ですから、無為を成し遂げる力を持つまでは、意義ある有為の行いを全て努力して行うべきです。何をするのも自分自身のためであり、自分が利益を得、無為の果実を収穫するのです。表面的には他人を利益し、他人が自分の助けを得たように見え、自分が三宝を護持し、三宝と衆生を利益したかのようですが、実際には自分が最大の利益を得ています。もし三宝が利益を得ず、衆生が利益を得なければ、自分が行ったすべては無益で、無駄な努力に終わります。いわゆる利益とは、三宝と衆生を利益した上で初めて現れるものであり、他人が利益を得なければ、自分も福徳も功徳も智慧も得られないのです。
例えば衆生に布施すれば千倍以上の報いがありますが、相手が受け入れなければ一つの報いもなく、相手が利益を得なければ何の報いもありません。虚空に一万元を布施するようなもので、虚空は受け取らず利益もないため、自分が一万元を失ったのと同じです。お金を失うことに何の報いがあるでしょうか。一銭の報いも得られないのに、ましてや千倍万倍の報いなどあるはずがありません。大海に一万元を布施するようなもので、大海は受け取らず利益もなく、かえって一万元を損壊することになります。故意に印刷された紙幣を破壊すれば罪にもなります。大火に一万元を布施すれば、火に焼き尽くされ、布施は無益どころか罪を招きます。
ある人々は自分の布施を忘れず、人に恩を施したと思いがちですが、実際には相手が自分に恩を施してくれたのです。もし他人が自分の施しを受け入れてくれなければ、どうして千倍万倍の報いを得られるでしょうか。どうして少しずつ積み重ねた多くの見道の福徳資糧を得られるでしょうか。仏陀は衆生に福徳を積ませるため、涅槃に入る際にあえて数人の阿羅漢弟子に形を留めて世に住まわせ、衆生の供養を受け入れ、衆生に大いなる福徳を培う機会を与えました。それらの阿羅漢は実は人々の供養を受けたくありません。一つには煩わしいから、二つには自分の福徳を消耗するからです。しかし仏陀の弟子として、一つには仏陀の配慮を尊重し、二つには衆生を利益するため、彼らは無余涅槃に入らずに世に住んでいるのです。
ある人々は法施を行い、縁ある人を正規の修学に導くために投稿をしますが、まるで師匠のために仕事をしているかのように感じ、他人が利益を得るのに自分は時間と労力を費やし、損をしたように感じます。自分が法施を行った結果がどれほど素晴らしく、最終的に得る利益が計り知れないことを理解していません。まさにこの功徳と福徳が、現世と来世の修学過程で仏道を速やかに成就させ、無量劫の生死輪廻の苦しみから免れさせるのです。この果報は虚空のような財宝でも換えられず、得られる果報は言い尽くせません。そして自分が法施で利益を与えた人々は、自分自身の福徳・功徳・智慧には遠く及びません。三宝と衆生が自分の布施から得る利益が大きければ大きいほど、自分の福徳と功徳は大きくなり、将来の智慧は最も高くなります。目先の利益に囚われず、真実を観察し、自分の未来と最大の利益を考えるべきです。
菩薩の福徳は阿羅漢の万倍、億倍、無量倍です。菩薩は生々世々にわたって衆生と共にあり、身振り手振りの間に衆生を利益し、同時に千万倍、億倍、無量倍の福徳と功徳を得るからです。だから菩薩は大富の長者であり、その富貴は世の誰にも比べるものではありません。福徳と智慧が円満に具わった時、八相成道して天人師・仏世尊となるのです。
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