衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月21日    月曜日     第2 回の開示 合計2928回の開示

父子合集経講記(七一)

一切の法は本来より解脱している

解脱とは束縛されないことである。一切の法はそもそも得がたきものであるがゆえ、人を束縛することはできず、衆生の自心が一切の法を真実と認め我執し、絶えず攀縁するがゆえに、自ら進んで諸法に執着し、解脱を得られないのである。法自体に咎はない。もし一切の法が得がたきものであることを証得し、もはや執取する心を起こさなければ、解脱を得て諸法に束縛されなくなる。衆生は皆、六塵の境界に縛られ、自らの五陰身に縛られている。縄が環のごとく重なり、堅固に縛られている様は、三界の牢獄の如く、束縛を断ち切り獄舎を脱出すること叶わない。その根元は、衆生の自心が諸法を明らかに認識せず、諸法が空なる幻影で実体なきことを知らぬが故である。諸法は本来人を束縛せず、攀縁する必要もない。衆生がこの理を悟れば、自ずと虚妄の境界より解脱する。諸法の解脱は決定して現前し、衆生も本来解脱している。ただ真相に迷い、徒らに自らを縛るのみ。解脱できない衆生は存在せず、ただ痴迷に沈む者あるのみ。

世間の一切の法は本来より空なる幻影である。我々が空じる必要はなく、一切の法は本来より解脱している。我々が解脱させる必要はない。ただ真相と真理を悟れば、空ならざる法はなく、解脱せざる法はない。我々は諸法を有と設定することはできず、十法界も十八界もまた如是の如く空なる幻影である。故に衆生もなく、聖賢もなく、六根もなく、六塵の境界もなく、六識もない。それ故に何らの束縛もなく、束縛される者もない。束縛と束縛されることは皆幻相であり、得がたきものである。

——生如法師の開示
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