衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月13日    水曜日     第4 回の開示 合計2997回の開示

迦葉仏伝法偈

原文:一切衆生の本性は清浄であり、本来より生ずることなく滅することもない。即ちこの身心は幻の如くに生じたものであり、幻化の中に罪福は存在しない。

釈:衆生とは五陰のことであり、五陰とは第八識が幻化したもので、第八識と不二の関係にある。その本質は全て真如第八識である。真如第八識は自性清浄心であり、本来より自性清浄で、染汚されることはない。故に真如自体に依って説けば、そこから生じた五陰の衆生は即ち清浄性であり、真如如来蔵性そのものである。

もし真如第八識を離れ、個々の衆生の五陰を単独で見るならば、それは染汚性・生滅性・変異性・無常性・無我性となる。真如第八識は無始劫より法爾として存在し、生じたものではなく、滅したこともなく、永遠に滅することもない。故に第八識に依って説けば、五陰の衆生も無生無滅であり、その本質は全て第八識の属性である。

第八識には五陰の種子が蔵されており、縁に遇えば衆生の五陰を生じる。第八識は永久不滅であるから、永遠に五陰身を生じ続ける。故に五陰は全体として長遠の時劫を見れば常存不滅であり、成仏後も滅することなく、諸仏はこの五蘊身心をもって衆生を利楽し永劫に窮まることがない。個々の五陰を単独で見る場合にのみ、生滅性となるのである。

五陰によって構成される衆生の色陰の身と、受想行識の四陰の心識は、全て真如第八識が様々な縁に依って幻化したもので、魔術師が虚空に幻人を化現するが如きものである。幻人が如何なる罪業や福業を造作しようとも、その罪福の業もまた幻の如く実体がなく、真実の罪報や福報は存在しない。五陰の衆生も同様に、幻化された衆生が如何なる罪福の業を造作しようとも、その業は幻の如く実体がない。もし身体が行うならば身体は幻、識心が行うならば識もまた実体なき幻化である。既に幻化で実体なき以上、その造作する罪福の業も幻の如く実体なく、真実の罪報や福報は存在せず、主体なき故に業行も存在しない。

——生如法師の開示
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