衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月23日    火曜日     第3開示 合計3126開示

父子合集経講記(一三二)

<h2 style="text-indent: 2em;">禅定の中で観行し、諸根は幻の如く、境界は夢の如しと観ずる</h2>

諸根は幻の如く、境界は夢の如し。これらの法を観行するには、より深い禅定が必要であり、さまざまな境界の中で、六根が六塵に対する中で、根と塵の虚幻性、不実性、作主しない性、自体性のないことを体得しなければならず、定と慧を結合させ、完全に融合させなければならない。仔細に観行する。眼が色を見るとき、眼根がいかに自在でないか、色塵がいかに虚幻で、いかに影のようであるか。耳が声を聞くとき、声という境界がいかに夢のようであるか、耳根がいかに幻化のようであるか、いかに生じ、いかに滅するか、いかに聴覚の働きを起こすかを観行する。観行が成就すれば、五陰の空幻を証得し、寂静にして生じないことを証することができる。

これらの法の観行について、初步的な理解は、証得と同じではない。理解は比較的容易であり、意識が心でしばらく思惟すれば理解したように感じるが、これは証得ではない。証得には禅定が必要であり、甚深な思惟が必要であり、証拠が確実でなければならず、内心の奥深くにある意根まで深入りしなければならない。意根が認可して初めて証果という。第六意識の理解はすべて知識に属し、証拠がないか証拠が不十分であれば、それは証ではない。深く細やかな観行を経て、意根が内心の奥深くでその理を真に認可して初めて、証果となるのである。

そのとき、真に五陰無我、六根虚幻を証得して認可したことにより、心行が変わり、万事万物に対する見方が転換する。自分が虚妄であると真に思うとき、心には必ず変化が生じ、以前と同じまま、昔の姿のままであることはあり得ない。一方、意識の理解は、証得していないときには、内心で五陰が確かに無我であることを知らず、自我に対する認知は変わらず、五陰に対する見方は理論の上にとどまるだけで、心行は従来どおりであり、煩悩も元のまま重い。三縛結を断除できなければ、三悪道は免れることができない。

これは世俗法のいう「眼見は実、耳聴は虚」という道理と同じである。他人の言うことを聞くことは意識の理解に相当し、実証されてはおらず、自分の心はまだ虚しく、本気で問い詰める勇気がない。その後、眼で見て初めて真に知り、こう言うだろう。ああ、原来そうであったのか、と。このとき、人に対しても事に対しても、どう処理すべきかが分かる。眼見は意根の証得に相当し、耳聴は意識の理解に相当する。これはまったく異なる二つの階層である。意識の理解は他人から聞いたものであり、意根の証得は自らの眼で見たものであり、現量の知であり、真実に見たものである。

——生如法師の開示
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