衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月26日    金曜日     第2開示 合計3135開示

父子合集経講記(一三五)

<h2 style="text-indent: 2em;">修行とは仮法をより良く、より清浄 (viśuddha/pariśuddha) にすることである</h2>

こう問う人がいるでしょう。すべてが得られないのであれば、私たちは何を修行するのか、と。修行とは、まず一切の法は得られないという道理を知り、次に一切の法がすべて得られないことを証得し、最後に内心が空々として、大いに解脱を得て、もはや「得あり」というものに繋縛されることなく、一切の生死の苦から解脱することです。たとえ本当に何も得るところがなくても、私たちはこの「得ざる法」を得なければなりません。さもなければ生死輪回は止むことがありません。

一切の法はすべて虚妄であって、得られないものです。私たちが苦報を受けるのは偽りですが、しかし誰一人として苦報を受けたくはないものです。悪行を造作するのは偽りですが、しかし私たちは悪業行を造作してはなりません。人を殺すということは偽りですが、しかし私たちは人を殺してはなりません。地獄は偽りですが、誰も行きたくはありません。成仏は偽りですが、私たちはみな成仏したいと願っています。修行とはこういうものであり、仮法には仮法の働きがあり、真には真の働きがあります。すべてを滅除することができないのであれば、仮法をより良く、より清浄 (viśuddha/pariśuddha) にしなければなりません。私たちの七識心は偽りですが、しかし大きな働きを持っています。それならば、必ず神様に良い働きを起こさせなければなりません。仮をすべて放棄してしまっては、成仏することはできません。この弁証法は一見矛盾しているように見えますが、証果の後になれば、矛盾していないことが分かります。

——生如法師の開示
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