衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年06月09日    土曜日     第2開示 合計612開示

仏法修行は順次を踏むべきです

通常、修行は順序を追って行うべきであり、各段階ごとに修行内容が異なり、修行の次元が違えば内容も変わります。凡夫には凡夫の修行方法があり、賢人には賢人の修行方法があり、聖人には聖人の修行方法があります。凡夫が聖人の修行方法を用いることは絶対にできません。差が大きすぎて、全く力が及ばないのです。

凡夫は五蘊の生滅変化が無常であることを観じ、四聖諦の苦集滅道を観じるか、あるいは坐禅によって心を明らかにすることを求めることしかできません。凡夫は八地菩薩が証得した境地、例えば無所住無所着、一切法を空じる、相を取らず分別しない、任運自然などを観じることはできません。

凡夫と悟った後の賢人は、ちょうど有心と相に着して善法を修行する段階にあり、賢人はすでにいくつかの相を破っているものの、その次元は浅すぎます。このような人々が相に着せず、相の上で一切法を認識しないようにすることは不可能です。例えば凡夫が肉を見たならば、これは衆生であると思い、慈悲心から衆生の肉を食べるべきではないと考えるべきであり、これが正しい修行方法です。この時、肉を空と見なし、真如と見なして、食べても食べていないのと同じだと思い込んで大口で食べ始め、同時に自分は真如の境地に入ったと思い込むのは誤った修行方法であり、実際には貪欲の境地に入っているのです。

例えば凡夫が男相女相を見た場合、男女の相を空じてみな真如の一相と見なすべきではなく、そうすれば心の中には男女の相がなくなったかのように思い、何のためらいもなく交際し、結果として定力が著しく不足し、それぞれが道を踏み外してしまいます。このような修行方法は悪取空とも呼ばれ、罪過は非常に大きいものです。

凡夫が過去に造った罪業を懺悔しようとするならば、相を取って自分の悪心悪行を懺悔すべきです。しかし無相懺悔を行い、無理に一切の煩悩は菩提であり、真如の相であると思い込むならば、そう思った後は心が安らぎます。心が安らぐことは安らぎますが、罪業は依然として存在し、果報は容赦しません。このように頻繁に行うのは悪取空です。

もし異性が自分に対して特別な要求をしてきた場合、自分は相に執着せず、相手を真如の化身と見なして縁に任せるべきだ、という考え方があります。その結果、菩薩戒の十重戒を犯せば、地獄行きは確実です。

私たちの修行には順序と方法があり、でたらめに行ってはいけません。菩薩ができることを凡夫はできず、異性に対して縁に任せて教化することは凡夫の能力の及ぶところではなく、それは深い禅定を得た地上の菩薩の行いです。凡夫が行えば、必ず三悪道に堕ちます。

現代の仏法は乱れきっており、多くの人の意識心は非常に聡明で、地上の菩薩や仏陀の修行境界も多少理解しています。そこで地上の菩薩が修行すべき法を口先で唱え、自分も同じようにできると要求しますが、それは可能でしょうか?あなたは善財童子ではなく、善財童子のような善根福徳もなく、堅実に禅定を修め観行することも望みません。

私たちは口先だけの習慣を改めるべきです。仏法は実修しなければならず、その後に初めて実証できます。実修実証はスローガン的なものではなく、実修にふさわしい実行可能な方法が必要です。もしなければ、それは実修ではなく、実証もできません。たとえ私たちが仏の説かれた言葉を語ることができても、何の役にも立たず、単なるスローガンに過ぎません。足元で一歩一歩実践しなければならないのです。

——生如法師の開示
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