険難の処の導師
菩薩は険難の処に於いて導師となることを発願されます。いかなる処が険難か。三界に安きこと無く、火宅の如し。三界には安全で太平な処一つとして存在せず、全てが火宅の如く燃え盛っているのです。『法華経』の譬えによれば、三界は既に大火に包まれた家屋の如く、その家屋の中で遊び戯れる衆生は苦難が迫り来ることも、火宅を出離することも知りません。仏は苦難の中にあって出離できない衆生を慈悲深く思い、火宅の外より再び三界の火宅に戻り衆生を救済されます。しかし我々はなお三界の中で遊戯に耽り、烈火が叢生して帰路を断たれ、周囲に悪鬼や猛獣が充満し、家屋が崩壊せんとする危険に身を曝しながら、全くそのことに気付かずにいるのです。『法華経』の譬えは全て、衆生が生死の険難の処にあってこれを知らない愚痴を説き、ここに仏の大慈大悲を見ることができます。本来なら人の色身を捨て去るべきところを、再び人間の甲殻をまとって人中に生を受け、我々を救済するために戻って来られたのです。まさに無縁の大慈、同体の大悲と言うべきでしょう。我々も仏の如く、将来いかなる険難をも畏れず、誓って衆生を救済すべきです。
導師となる前提条件は何か。既に生死の険難の処を超越し、衆生を導く能力を具えていることです。どこが険難でどこに危険があるかを知らなければ、衆生を危険から導き出すことはできません。故に我々はまず如何にして三界を出離するかを悟り、三界を出離する能力を具えてこそ、初めて衆生を導き険難を避けて安楽の処に帰往させることができるのです。
0
+1