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日常法話

2018年05月25日    金曜日     第1開示 合計540開示

意根の思量性と智慧性

断我見(ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)とは、意根が五蘊の真実性を否定することであり、開悟して明心するとは、意根が如来蔵 (tathāgatagarbha) の真実性を承認することである。両種の取证は、最終的にはいずれも意根が働いているのである。では、断我見と開悟明心は、意根の慧が働いているのであろうか、それとも思量 (manasikāra/manana) 性が働いているのであろうか。

断我見と明心見性の過程においては、意根の思量性と慧心所の両者がともに働いている。意根には了別性があり、識別性があり、認知性があり、択択性があり、作主性があり、攀縁性があり、執著性があるため、それゆえに慧心所の働きがある。慧がなければ、これらの機能作用は存在しない。ただ、これらの慧の機能性はかなり特殊であって、広範囲にわたる、あまねきものであり、専一に深く入ることができず、了別があまり具体的かつ精密にできず、それゆえ、六塵の境界上の法については、六識が配合して了別する必要があり、意根がさらに了別・判断・択択を行う。ここにも慧心所の働きが関わっており、慧心所の了別慧がなければ、意根には識性がなく、根性のみを有することになるが、意根はその両者を兼ね備えている。

意根の思量性は、普遍的に意根の運行に伴っており、意根が存在する限り、思量性も刹那刹那に存在し運行している。意根が刹那に思量し、刹那に択択し、刹那に作主するからこそ、一切法が刹那刹那に現起して滅しないのであり、さもなければ、一切法には断滅して連続しない時があることになる。意根に所縁がある限り、作意し接触した一切法がある限り、意根の思量性は一切法の上に現行しなければならず、それによって初めて一切法は運行し存在することができる。意根は一切法の中に普遍的に存在しており、意根の五遍行心所法は、一切法の運行の中に普遍的に存在しなければならない。その他のいくつかの識心の五遍行心所法もまた同様である。

したがって、断我見と明心証悟の過程においては、意根の思量性は終始運行しており、思量の過程は意根の智慧性をも表している。智慧の程度が異なれば、思量の過ち、内容、結果が異なり、導き出される結論が異なり、その択択も異なり、六識の造作と功徳受用も異なってくる。意根が五蘊を思量する際に、小乗の空の智慧を具えていることによって、初めて五蘊は空で無我であると認識でき、我見 (ātma-dṛṣṭi) を断除できるのである。また、意根が第八識を思量する際に、大乗法の智慧を具えていることによって、初めて第八識の真実性を認識でき、実相の智慧が出生するのである。意根は思量性と了別慧が互いに輔助し協調して運行しており、一つでも欠ければ、一切法の正常な運転はあり得ない。

——生如法師の開示
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