衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年06月03日    木曜日     第2 回の開示 合計3423回の開示

懺悔による安らぎ──七十九歳の老人が実践する懺悔の行

この数日、私は朝5時に起きて観行を始めました。座っているうちに丹田から強大な気流が湧き上がり、私をしっかり包み込み、足を縛り付けました。気流はさらに腰から頭へと上行し、呼吸さえも困難になりました。私は座ったまま「私は誰か」という公案を参究し始めると、突然激しく泣き出し、地団太を踏み胸を叩きました。そして座席から立ち上がり、仏前にひざまずいて礼拝を続けるうちに、ますます泣きが止まらなくなりました。ああ!私はただの醜く老いた老婆ではないか? 毎日貪り食い貪り眠り、自己中心的な存在ではないか? あらゆる卑劣さが私そのものだ、この汚れた肉体を憎む!ついに再び仏前にひざまずき懺悔しました。私はただの臭い皮袋、こんな私は地獄行きがふさわしい。

再び座席に戻って観行を続けると、身体が再び固く縛られるように定まり、気がつけば2時間が過ぎていました。子供の食事を作らねばと立ち上がりましたが、動作は極めて緩慢で、頭も十分に働かず、機械的に動作をこなすだけで、他のことは全て私と無関係に感じられました。

昨日の座禅も同様で、法師の書かれた意根懺悔文を思い出し、自分に向かって「お前は何者だ? 懺悔文のどの条項にも該当している」と語りかけると、再び三昧の中で泣き出してしまいました。幸い座席からは起き上がらず、座禅を続けながら懺悔しました。あっという間に2時間が過ぎ、子供が起きてきたため座を下りざるを得ませんでした。座禅中に何度か芳香を感知し、下座時も前日同様に動作が極めて緩慢でした。法師様、このような修行でよろしいでしょうか?これは不浄観なのでしょうか?今日の座禅ではずっと楽で、身体の痛みもなく、心も安定し、あっという間に1時間以上が過ぎました。どうか法師様のご指導を賜りたく存じます。

評:この懺悔の初期効果は非常に良く、心の清浄・身体の軽安・禅定の増長が達成されています。ただし懺悔において自らの過ちを知る際、地獄や三悪道に堕ちるとの呪詛を自らに加える必要はありません。いかなる悪しき呪いや言葉も用いるべきでなく、発した言葉は将来実現します。善き願い・良き誓願を発し、過ちを改める心と行いを持てば十分です。自らを過度に憎む必要はなく、他者に対しても同様に、良き祝愿を持つべきで悪しき呪詛を用いてはなりません。

懺悔は宿世の悪業を消滅させ、業障が消えれば遮障も消え、身心ともに軽安を得て深い禅定に入り、観行思惟が順調となり、修行が正道に乗り早く進展します。座禅中に感知する芳香が自身の身体から発せられる場合、心身の清浄化が進んだ証であり、鼻孔・歯間・喉元から、あるいは全身から香気が発せられます。外部から鼻孔に入る香りは、仏菩薩や護法神の加護、あるいは天人が観察に来ていることを示します。

現在の認識水準から判断すれば、五蘊の観行による我見断絶から修行を始めるべきです。早期の参禅は控え、まず我見を断じてから参禅すれば順調でしょう。我見を断たずして真如自性を証得することは不可能です。高齢であることを鑑み、清浄なる大願を発して臨終時における極楽往生を確実にし、後に再び娑婆に戻り衆生を救済することを誓いなさい。臨終往生は最も優れた帰処です。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

善も思わず悪も思わぬのはどの識か

次の記事 次の記事

意識による証果は末法期における修行の岐路

ページのトップへ戻る