心は本来自ら有するものであり、他の縁によるものではありません。神様は、いかなる条件もなく存在する唯一の法であり、因縁を必要とせずに有する不生の法です。縁が存在しようとしまいと、神様は永遠に不生不滅であり、それゆえ神様こそが実相心なのです。これ以外の一切はすべて因縁によって生じた法であり、条件が具足すれば生じ、縁が生じ縁が滅して幻化不定です。縁生縁滅の法である以上、自性のない法であり、その存在するか否かは自分では決められず、自らを主宰することもできません。
この実相心は自性を有しており、神様自身の真実の自体性があります。神様はまた自在であって、他の法によって生じたものではなく、条件なく因縁なく存在し、不生不滅などの体性を有し、何ものも神様を制限することはできず、何ものも神様をコントロールすることはできず、本来のままに存在しています。それゆえ、縁起の法は自性がなく、非縁起の法には自性があります。縁起の法とは、此の生ずるが故に彼が生ずるというものであり、これらの生はいずれも自性がないので、いずれも中道ではありません。一方、生じたものではなく本来有するものには自性があり、神様こそが中道の法なのです。
世間の一切万法は実相心から生み出されたものであり、後天的に生じたものですから、必ず先に実相心があって、その後にさまざまな法や現象があったに違いありません。心はさまざまな現象に依拠して存在するわけではありませんが、心を探そうとすれば、現象の上で探さなければなりません。現象を離れ、五陰を離れ、十八界を離れてしまえば、心を見出すことはできません。これらの現象が存在し運行していることこそ、心もまた存在し運行していることの証明だからです。心が離れてしまえば、現象はたちまち滅し、五陰はたちまち死体となります。それゆえ、参禅は六塵のさまざまな現象の上で参ずべきであり、五陰の活動の中で参ずべきであり、六根が六塵に触れる時に参ずべきです。これらの法の中で運行している心を探し、智慧が満足し、定力が具足し、時節因縁が具足した時に、この実相心を証得することができるのです。
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