受想滅尽定に入り、意識が滅しても、末那識は依然として活動しています。この定は末那識の定でしょうか、それとも意識の定でしょうか。この時、末那識は依然として転じており、作意・触・思心所法が存在します。思心所が活動する限り、境界は現れます。もし末那識が作意せず触れず思わなければ、色身は倒れて涅槃に入るため、滅受想定においても末那識は依然として転じています。しかしこの時の定は、間違いなく完全に末那識の定であって、意識の定ではありません。なぜなら意識は消失しているからです。もし消失した識心に定があるなら、眠りに就いた後も定があるはずです。
六識が現れず、末那識の心行も受想しない状態こそが定です。作用が少ないことが定なのです。滅尽定と無想定においては六識が現前せず、では誰が定に入っているのでしょうか。必ずや末那識の定です。無想定と滅尽定には六識が存在せず、六識は全て滅しています。それなら六識がどうして無想定と滅尽定に安住できるでしょうか。明らかに不可能です。もし六識がないのに六識に定があるなら、どうしてあり得ましょうか。昏迷状態で六識がなければ即ち入定であるなら、私たち皆で昏迷状態になれば良いではありませんか。眠りに就いて六識がなければ即ち入定であるなら、私たち皆で眠れば良く、座禅して入定する必要はありません。
もし末那識に定がなく、その攀縁性が以前と同じように全て現前するなら、六識は静寂を得られるでしょうか。私たちが静坐して定に入り仏法を思惟しようとしても、末那識が鳥の声を聞きたがり、景色を賞翫したがり、過去の人事物を了別したがれば、六識は雑多な了別を生じ、どうして静寂を得て仏法を思惟できましょうか。六識が入定することなど不可能です。故に全ての定とは末那識を定めるものであり、末那識を定めて初めて六識は静心して思惟できるのです。
末那識は転識であり、万法の主導的な存在です。末那識を定めなければ万法は止まることなく現れ、六識は引きずられて様々な了別造作を行い、どうして定がありましょうか。定とは主人を定めるものであり、指揮官を定めるものです。使用人や兵卒を定めても何の役に立ちましょうか。例えれば車を止めて駐車するには、運転手を止めるしかなく、助手席の同乗者を定めても何の意味がありますか。車を止められるでしょうか。泥棒の盗みを止めようとするなら、泥棒自身を制止するしかなく、無関係の人を制止しても意味がありません。末那識が転識と呼ばれ、一切の法を転じ出す存在であるなら、定とは必ず末那識の定です。末那識が六識を転じ出す以上、末那識を定めずに六識を定めても無意味で、六識は依然として末那識によって転じ出されます。以上から、定とは末那識の定であり、修定の目的は末那識を定めることにあります。そうして初めて定を得て、万法が現前しなくなるのです。もし末那識を繋ぎ止めれば、一切の法は成就します。末那識を繋ぎ止められなければ六道輪廻します。故に末那識に関わらない法は一つもありません。
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