衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年06月12日    土曜日     第1 回の開示 合計3440回の開示

意根の慧と意識の慧の差異

問:いわゆる記憶とは、末那識の参与のもと、前六識が経験した内容を保存し、後に必要に応じて意識が主導して回想することです。一方、理解とは、意識の智慧の導きによって末那識の思考を引き起こし、それにより末那識が物事の内在的な関連性と道理を把握するため、関連する問題に遭遇した際に回想を必要とせず、末那識が直接解答と処理を行うことです。したがって末那識に智慧がある時は問題処理が簡潔迅速ですが、智慧がない場合は記憶を検索しなければならず、結果として処理に時間がかかり非効率となります。以上の理解は正しいでしょうか?

答:以上の理解はおおむね正しいです。末那識に智慧がない場合、意識の回想を経て、比較・対照・衡量を行った後、初めて正誤の判断を下します。智慧が浅ければ浅いほど、比較衡量に時間を要し、優柔不断になり、自信がなくなります。意識の思考・分析・比較・衡量を経ずに迅速に決断する「快刀乱麻を断つ」ような判断は、末那識が直接下す判断であり、智慧ある場合も無い場合もあります。表情を変えず、心思を巡らさず、反復思考せず、静かに自動的に問題を解決するのは、全て末那識の智慧です。処世に長けた人々の末那識には智慧があり、経験豊富で物事を円融無礙に処理し、他人に付け入る隙を与えません。

末那識に智慧のない学生は、一般に意識による丸暗記に依存し、自由な発揮ができず、非知識的問題に遭遇すると為す術がありません。一方、末那識に智慧ある学生は決して記憶しようとせず、問題を理解した上で自由に発揮します。従って学校の試験で高得点を取る学生が真に智慧あるとは限らず、試験問題が知識型か発揮型か、知識を試すものか智慧を試すものかによって異なります。

仏法も同様で、大層な理論を述べる人が必ずしも実証的智慧を持つとは限りません。もし多くの書物を読み、博学で記憶力が強く、学んだ法を意識的に整理・帰納・総括・分析できるなら、一つの理論体系を構築できますが、これは即ち実証的智慧を意味せず、知識の蓄積である可能性もあります。知識の蓄積は煩悩を断じ切れず、単に意識が聡明であることを示すに過ぎません。意識の聡明な人に法を学べば多くの理論知識を得られますが、実証は困難です。実証ある人に学べば実証し易いですが、知識は必ずしも豊富ではなく、実証後に智慧が成長すれば、次第に知識領域を拡大し必要な理論知識を補完できます。

末那識に智慧ある時は智慧が深く、煩悩がなく、格局が大きく、心が広く、気魄と胆識があり、眼光が遠大で、大是大非を正確に判断し、過ちを犯しません。一方、意識の聡明さには深遠な大智慧がなく、心量が十分広くないため、聡明さが却って災いとなる可能性があります。人が生来持つ智慧は全て末那識が持ち込んだもので、末那識の智慧です。後天的な智慧は新たに学んだもので、意識の智慧であり、また末那識の智慧である場合もあります。

——生如法師の開示
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四念処観行問答31

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