淨和の観行:最近、意根に対する体得も少し収穫がありました。それは、意根の「動作」が層状になっていると感じられることです。五倶意識が生じる前は主に疑の性質を持ち、五倶意識が生じた後に初めて明らかな貪・瞋などの性質が現れます。日常生活では通常、貪・瞋などの習気が生じてからでないと反省できず、坐中ではできる限り五倶意識が生じた初期段階で反省観照します。しかしこの反省して放下する過程には、通常意識を用いてある程度の導きを行わねばならず、反省したら即座に放下することはできません(これが意根が五蘊の空性に完全に同意していない状態です)。現在悩んでいるのはこの点です。
コメント:意根の最初の疑いは法に対する不確実性であり、まだ決断を下せない状態です。一旦内心で確信し疑いがなくなると、決断が生じます。決断の後、六識が生起して意根の考えに従って造作します。造作の過程で、意識は法を観察し、自らに貪瞋痴があることに気付きます。この「自ら」とは意根を指します。意根の貪瞋痴は六識の造作を通じて現れ、この時独頭意識には観察力あるいは反観力が生じます。一般的に、独頭意識の覚悟が十分でない場合、身口意行の造作が完了した後に初めて自らの貪瞋痴の習気に気付くため、一歩遅れます。独頭意識の覚悟力が強ければ、造作を決意する段階で既に自らに貪瞋痴があり、造作しようとしているのが貪瞋痴の業行であることに気付き、造作しないと決断します。この決断が意根に伝わると、意根は再び自らの決断を行い、最終結果は意根の覚悟次第です。
もし意根の覚悟性が強くなく習気が重い場合、依然として自らの決断を堅持し、身口意行を変えようとせず、煩悩を継続させます。しかしそうであっても、独頭意識の反観は依然として効果があり、意根に種を埋め込み、このような行為が貪瞋痴であり、良くないこと、すべきでないことを意根に認識させます。次に意根が再び煩悩を現行しようとする時、心に躊躇いと障害が生じ、煩悩の力度は軽減されます。意識が繰り返し阻止し諭すことで、意根の心は変化し、煩悩の造作を継続しなくなります。故に修行は一朝一夕で成るものではなく、意識の毎回の反観が煩悩を消除する種を埋め込み、これらの種は遅かれ早かれ根を張り芽を出し、花を咲かせ実を結びます。意根が累生累劫に積み重ねた煩悩は山の如く、短時間で変わるものではなく、忍耐強く薫修することが必要です。常に覚悟を保つべきです。
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