昨夜、座禅で呼吸を観察した。呼吸は比較的スムーズで、胸と腹は温かく心地よかった。呼吸の観察が続くにつれ、呼吸の熱の流れが絶えず身体の中で広がっていくのを感じ、腹部から次第に背中の後ろへと伸びていき、最後には熱の流れが後頭部に流れ込んだ。呼吸はますますスムーズになり、気脈は通じ、眼前は清明で、妄念はほとんどなかった。意念は全身の覚受に集中していたので、観行の法義を準備しようとしたところ、頭の中に「色は無常、色は無我」と自発的に閃いた。この時突然、全身の筋肉が緊張して引き締まり、呼吸が急激に深くなり、身体は筋肉の収縮に伴ってよじれ始めた。この状態はおよそ二分間ほど続き、その後ゆっくりと平静を取り戻した。
その後も引き続き呼吸を観察し、全身の覚受を感じていた。先ほどの全身の筋肉の緊張と収縮を経て、全身の経脈はさらに開かれ、特に頭部はいっそう通暢した。こうしてしばらく観行すると、頭部は清明で、眼前は安寧だった。そこで再び頭の中に「色は無常、色は無我」と自発的に閃かせた。今回は全身にまだ反応はあったが、それほど強くはなかった。ゆっくりと眼前で色無我の具体的な法義を思惟した。思惟の過程では意念が集中し、妄念はなく、いらだちのような感情や根拠のない妨げも一切なく、安寧で深い状態が続いた。まもなく目覚ましのベルが鳴り、下座した。今朝の上座では全編を通して呼吸を観察し、観行による法義の思惟はしなかった。全身の気脈は通暢し、ずっと全身の愉悦の過程の中に楽しんでいた。
評:「色は無常」という念頭が現れたとき、全身の筋肉が緊張して身体がよじれるのは、意根が色無常に触動されたからである。以前、無常の法が意根に触動しなかったときには、このような震動の現象は起きなかった。意識が明らかにした多くの法義は、意根に薫染していないときには、身心はいかなる触動も受けない。意根が法義を正面から見据えたときにのみ、震動が現れる。引き続き観行と参究を続けてこそ、意根が証得でき、三昧 (samādhi) あるいは法眼浄がそれに伴って現れるのである。衝撃、驚き、うろたえ、慌てふためくといった深層の心理活動は、すべて意根が触動されて現れたものである。
呼吸を観察するときは、一心に呼吸の無常を体得しなければならない。体得する際に思惟は必要なく、ただ客観的に観察するだけであり、わざわざ「色は無常」という話頭を引き出す必要はない。四念処の観行で我見を断じるのは、呼吸という切り口から自然に色無常・身無常を体得し、さらに受念処・心念処・法念処から、客観的に心無常・法無常を体得することによって、我見を断じるのである。功夫が至れば、自然に観察し自然に体得するのであり、現在の観行と異なる法義の問題を意図的に閃き出させるのではない。これは自然な証果であり、意根の証果である。
観行は現量の観察ともいう。目の前にどんな法があるならその法を観察し、法がどんな状態にあるならその状態をありのままに観る。呼吸を観察するなら、ありのままに呼吸を観察し、現量で呼吸を観察する。呼吸の情景がそのまま目の前に現れる。意根がどう認識し、どんな結論を導き出すかは、意根の仕事である。色無常・身無常ならば、意根自身にこの結論を導き出させ、神様自身に確認させればよい。意識にわざわざ注意させる必要はなく、意識はただ現象をありのままに意根に提示する役割を担うだけでよい。残りはすべて意根の仕事であり、意根の代わりに焦る必要も、意根の代わりに決めてやる必要もない。誰の問題か誰が解決するのであり、手伝っても無駄である。このような結果こそが現量の実証であり、情思意解はなく、推理や導出、想像や憶測もないのである。
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