意根は明鏡が像を現すのに似ていますが、如来蔵(tathāgatagarbha)が明鏡のように像を現すこととは大きな違いがあります。如来蔵が像を現すとき、如来蔵と像との間には生じるものと生じられるものという関係がありますが、意根が像を現すときには、意根と像との間に生じるものと生じられるものという関係はありません。意根は第二の能変(parināma)識ではありますが、この「変」は無から有を生じるという「生」の意味ではなく、顕現するという意味であり、促成するという意味なのです。
意識と五識は第三の能変(parināma)識であり、やはり像を現し顕す機能・作用を持っていますが、意識の現像は意根の現像ほど如実ではなく、誤ったもの、ずれたもの、変異した像を顕現することがあります。それゆえ、単に諸法を照らし見るという作用は起こらず、像に加工を加えて顕現するのです。もちろん意根の現像も完全に如実な顕現ではなく、ある程度の歪みや変異がありますが、意識ほどの歪みはなく、如来蔵の現像は完全に如実であり、歪まず、変異せず、法の本来の姿に忠実です。それゆえ、如来蔵の現像こそが真に鏡が像を現すようなものなのです。これが三能変識の現像の違いです。
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