衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年12月03日    土曜日     第1 回の開示 合計3773回の開示

邪精進とは何でしょうか

邪精進は正精進とは逆に、努力する方向が正しくなく、方向が誤っているため、努力すればするほど目標から遠ざかります。正精進が目指す方向は無我を悟り、空を証得することであり、ますます無我となり、ますます空に近づき、完全なる究極に至るまで、戒定慧の三無漏学を修めます。一方、邪精進の者は心中に我が強く、有に執着して空を悟らず、何を修めるにせよその所謂「私」の世俗的利益のためであり、世俗の有に固執し、名誉や利益を心に望み求め、道に背を向けています。このような状態では、日夜休まず座禅を組み経文を唱え仏号を称え、法を学び甚至び法を弘めても、全て自己中心であり、自己の利益を中心とし、自分が利益を得て、自分に関わる者が利益を得れば、他人がどうなろうと構わず、甚至他人の利益を損なうことさえあります。このような修行は、精進すればするほど無我の道から遠ざかり、空から遠ざかり、法界の実相から遠ざかり、最後には魔と化しやすいのです。

清浄なる大願や正願を伴わない精進は、邪精進とは言えないまでも正精進ではありません。一切の修行は願いを先導とし、願いなければ事は成らず、願いあれば事は倍の効果を生みます。願いは加速器の如く、深き穴の梯子の如く、泥中の牽引綱の如く、業力の絡み合いから脱し涅槃の彼岸へ直達させます。小さな願いは自己のため、大いなる願いは衆生のため、邪なる願いは仮有のため、正しき願いは真空のため、清浄のためです。大願と正願が発せられないのは修行が未熟なためであり、一旦善根福徳が厚く積み重なれば、自然に願いが起こり、願いあるものは全て成就します。

——生如法師の開示
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