衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年02月22日    水曜日     第4開示 合計3873開示

意根が受ける薫習の程度には深浅の差があります

問:ある見解を聞き、ある法を学んだ場合、例えば五蘊が虚妄で無常空無我であると、心が確かに生活の中で変化し、仕事や生活の大方向の調整であれ、以前貪愛していたものに再び会ってもあまり貪着せず、非常に淡泊に感じるようになった場合、これは末那識の転換と言えるのでしょうか。

答:これは三十七道品の修行段階における変化であり、修行が比較的効果を上げている状態です。末那識が薫習されると心が転換し始め、八正道の上に転じ、いくつかの粗重な貪りの煩悩を降伏させたのです。身心世界が変化したということは、すなわち末那識が薫習されて転じたことを意味します。つまり、修行のどの段階においても、末那識が薫習されれば修行は効果を現すのです。三十七道品も末那識まで修めなければならず、そうでなければ偽りの修行であり、まだ道に乗っていないことになります。しかし、このような身心の変化はまだ生まれ変わるほどには至っておらず、我見を断つことができるレベルではありません。そのため、我見を断ったと自称する多くの人々は、断我見後に身心の各方面でほとんど改善や変化が見られず、骨が変わっていないため、凡夫の胎を聖人の胎に換えることはできないのです。

証果以前には、仏法はすべて末那識に薫習されなければなりません。末那識が善法の薫習を受ければ変化が生じ、身心も変化します。証果の瞬間はなおさらであり、それが初めて三昧力と呼ばれるものです。もし仏法を学ぶ過程で末那識に薫習されず、ただ意識が知識を吸収し理解するだけなら、末那識は相変わらず変化せず、身心世界の転換も起こりません。そうなると、我見を断ち証果を得ることは遙か先のこととなります。

証果以前に末那識が薫習されても、一定の程度に達していなければ、我見を断ち証果を得ることはできません。したがって、身心の転換、身口意の行いの転換、我見を断つこと、明心見性のいずれも、末那識を相当な程度まで薫染させなければならず、末那識がほんの少ししか変わっていては不十分です。生まれ変わるためには、末那識を徹底的に転換し、末那識の煩悩による心の染汚を消し去り、欲界の五品思惑の煩悩を断じ切らなければなりません。そうして業の種子が第八識に蓄えられてこそ、来世において人天善道に往生し、三悪道に入らないことが保証されるのです。また、意識で証果を得ようとする頑固な態度に固執し、末那識による証果の観念に抵抗し、頑なで融通が利かず、救いようがない人もいます。

——生如法師の開示
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意根が薫習を受けた後の覚受

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意識は意根を効果的に薫習し変化させるべきである

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