衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月09日    木曜日     第4開示 合計3892開示

識心の認知がどの程度に達してこそ智と呼べるのか

識心の法に対する認識は程度が異なっており、深刻な煩悩の遮障がある認識は往々にして邪見 (mithyā-dṛṣṭi) であり、煩悩の遮障がやや軽い認識は時に正しいこともあるが、それは以前の誤った認識に相対して言えるだけであり、完全に正しいわけではなく、その知見は正しい方向へいくらか転じたにすぎず、識心にはいくらかの慧力 (prajñā-bala) が備わったものの、まだ智とは言えない。智とは煩悩の遮障がなくなった後の正しい認識であり、煩悩の遮障がないため、識心の認識には煩悩性の染汚性がなく、清浄 (viśuddha/pariśuddha) 性をはっきりと顕露することができ、造作するのはすべて善業と清浄の業であり、悪業を造作することはない。このときの智にはほとんど誤謬がなく、あるいはごくわずかに誤謬があるだけで、信頼し依拠するに値する。このようになって初めて智と呼ぶことができる。

佛陀が涅槃に入られる臨終に際して、後世の衆生に「智に依るべく、識に依るべからず」と遺言された。この智は普通の智慧の智ではなく、また証果と明心をした直後に生じた無生忍の智でもなく、煩悩の遮障のない無生法忍の智であり、転識成智の後の智であり、道種智の智である。証果と明心をしたばかりの頃は、智慧は凡夫よりいくらか深いものの、煩悩の遮障があるため、智慧はなお比較的浅薄であり、心地の染汚も比較的はっきりしており、時には煩悩のためにいくらかの悪業を造作することもある。これは智ではないので、法に対する認識は慧としか呼べず、智と称することはできない。結果に違害の作用があるものは、すべて不智であり、智と称することはできない。結果がすべて善であってこそ、その行為は明智の挙りであり、智と称することができ、依拠することができるのである。

凡夫の心識の思うところ、考えるところは、すべて識性に属し、煩悩の慣性に依拠して生じる了別と択択の作用は、すべて識性に属しており、智がない。証果と明心をしたが煩悩を断除していない賢人は、思うところ、考えるところに一定の智慧があり、識心の慧力 (prajñā-bala) が増強されたものを慧と呼ぶが、まだ智ではなく、大枠においてはなお識性の範疇に属しており、完全に依拠し頼ることはできない。それゆえ、多くの人がいくらかの法を学ぶと、自分がどれほど殊勝で勝れていると思い込むが、これはすべて識性の認識の範囲に属しており、誤りの成分が占める割合はなお非常に大きい。だから、あまり自分の意を信じすぎてはならない。このような自信はほとんど誤信のようなものであり、慢心が引き起こした結果である。多くの人が自分で思う不疑も、本当の不疑ではない。智慧が不足しているときは、疑いがあっても反観力 (pratyavekṣā-bala) で見出すことができず、自分が事実だと思っていることは、往々にして事実でもなく、単に判断を誤っているだけである。

——生如法師の開示
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