衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年03月24日    金曜日     第1開示 合計3902開示

第六第七識の心性を転ずることこそが転依如来蔵である

見道は大乗と小乗の二種類に分かれており、大乗だけが見道と呼ばれるわけではない。また、大乗の見道とは如来蔵を証得した後に転依することを指すのではなく、如来蔵を証得した時点ですでに見道に属するのである。ある者は言う:如来蔵を証得しても大乗の見道とは認められず、如来蔵の体性への転依に成功して初めて大乗の見道となり、悟りを証得したことになる、と。しかし、如来蔵に転依した後の証量とはいかなるものか、心の境地がどれほど清浄になるのか、誰が知っているだろうか?もし如来蔵への転依後に初めて明心して悟りを証得するのであれば、娑婆世界(しゃばせかい)で明心して悟りを証得できる者はおそらく一握りもいないだろう。誰が転依に成功できるのか、転依に成功した者はどのような智慧を具えるのか?誰の第六識・第七識、五陰が如来蔵の心性に似て近づいているのか?凡夫や地前の菩薩の第六・第七識の心性は如来蔵の心性とは大きく隔たっており、どうして転依に成功できようか?第六・第七識は少なくとも煩悩を断ち切り、三果や四果の聖者となって初めて、かろうじて転依に成功したと言えるのである。

修行とは第六・第七識を修めることである。修行について語ればすぐに如来蔵を指し、無所住(むしょじゅう)と言えばすぐに如来蔵を指し、禅定と言えばすぐに如来蔵を指し、涅槃と言えばすぐに如来蔵を指す。如来蔵に関する理論的知識は山ほどあるが、第六・第七識は結局何をすべきなのか?実は第六・第七識こそが無所住を必要とし、第六・第七識こそが禅定を必要とし、第六・第七識こそが涅槃寂静を必要とするのである。如来蔵が涅槃に入るか否かは現時点ではさほど重要ではなく、第六・第七識が修行の後に涅槃寂静の境地に至ることが最も重要なのである。修行の重点は第六・第七識を修めることにあり、もしこの重点を誤って如来蔵の理論的知識のみに重きを置き、心性が変わらなければ、それは修行とは呼べない。現時点において、第六・第七識の修行に関係のない理論は大して役に立たず、むしろ道を妨げる因縁となる可能性すらある。

——生如法師の開示
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凡夫は如来蔵に転依することができるでしょうか

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