衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年06月21日    水曜日     第1 回の開示 合計3965回の開示

なぜ座禅一須臾は恒河沙の七宝塔を造るに勝ると言われるのか

人が一須臾静坐する功徳は恒河沙数の七宝塔を建立するに勝る、という言葉には一定の道理がございます。何故かと申しますと、恒河沙の如き七宝塔を建立することは単なる財施に過ぎず、確かに計り知れぬ福徳を得られますが、それは施主個人の福徳に留まり、他の衆生には及びません。またその福徳もいずれ尽きる時が参ります。況してやこれは単なる福徳であり、智慧の功徳を含まず、無明煩悩を断じ解脱を得ることは叶いません。功徳とは智慧の成就であり、無明煩悩を断じて大解脱を得るものです。福徳と智慧の二つが共に円満成就して初めて一切種智を成じ、どちらが欠けても仏陀となることはできません。

禅定は身心を修める最も有効な道でございます。静坐そのものが定福を生むのみならず、功徳の受用をもたらします。静坐する者本人が功徳を受けるだけでなく、周囲の人々にも影響を及ぼし、縁ある者皆が功徳を受用いたします。衆生の身心には一定の磁場作用があり、相互に浸透し影響し合うからでございます。冷水と熱水の関係に譬えれば、最終的には冷熱が調和し、熱水の熱量が冷水に浸透して温め、堅氷をも融かす如く、禅定ある修行者は熱水に、禅定なき者や浅い修行者は冷水や堅氷に譬えられます。かくして禅定ある者の功徳は無形の内に禅定なき者へ伝わり、身心の愉悦、煩悩軽減、心の柔軟化、業障や苦悩の消除をもたらすのでございます。

もっとも熱水の熱量が冷水や堅氷に伝われば熱は減じ冷めますように、禅定修行者は身心の疲労を覚え、煩悩の増加や病苦に見舞われることもあり、修行の功力が弱まり、従前の身心状態を保つにはより多くの代償を要し、或いは更なる禅定深化が求められます。故に修行者は場所を選び、交わる人々を慎み、業障重き処を遠ざけるべきでございます。善き友を必要とするのは万人同じ、善友なき場合は独居せざるを得ません。

しかし人里離れても衆生への影響が全くなくなる訳ではございません。元来功徳は身近な少数に伝わっていましたが、周囲に人々の遮障がなくなれば、その磁場とエネルギーはより遠くまで届き、受益者も増えます。少数が多くの人々に必要な陽光と温もりを遮る必要はございません。修行功力大いなる者は百里、千里、万里を超え、都市や省、国家、さらには全世界、仏教界全体に影響を及ぼし、仏教の興廃存亡に関わるのでございます。団体の大小を問わず、その人在れば団体は穏やかに栄え、一旦その人を失えば業障を抑えきれず、紛争頻発して次第に衰退するものでございます。

一須臾の静坐は是非紛争と雑念を止息せしめ、身心を静寂に帰し、自他の磁場を浄化いたします。人畜・飛鳥・鬼神も瞬時の安穏を感じ、熱悩を止滅するのでございます。この福徳功徳は言葉に尽くし難く、恒河沙数の七宝塔建立も比ぶべくもありません。特に末法の今時、衆生の貪瞋痴煩悩は熾盛を極め、業障は恒河の流れの如く、災害頻発し苦難重なる中、一須臾の煩悩を止滅する功徳は計り知れません。ただしこれは正定を指し、邪定は負の影響力のみを有するのでご注意を。心邪なれば、その無形の影響力もまた甚大でございます。

——生如法師の開示
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