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生如法師
繁中
日語
日常法話
2024年01月07日 日曜日 第1開示
合計4093開示
口先だけの禅は修行と実証ではありません
悟前の修行には多くの段階があり、悟後の修行にも同様に多くの段階があります。悟前に悟後の方法で修行しても無駄です。まだ入門していない者が、門をくぐった先のことを行うことはできないからです。悟りを開いたばかりの人やまだ悟っていない人が、もし地上の菩薩の方法で修行しようとしても、なおさら効果は得られません。高遠な理論を手に抱えて、自分がすでに実証したと思い込み、聖人や如来蔵のようになれたと思うのは、まったくの自己欺瞞です。多くの人が「煩悩即ち菩提」という言葉を見て、煩悩を如来蔵の幻化と見なすことがそのまま修行だと思い込み、煩悩を降伏させる方法を考えようとしません。結果として煩悩は相変わらず煩悩であり、菩提は相変わらず菩提であり、死後も依然として生死に沈淪します。何の益があるでしょうか。 ある人々は如来蔵に修も証もないことを理解すると、七識と五陰も修も証もないべきだと思い込みます。それなら如来蔵も本来仏であるのだから、自分は完全に家で仏をしていればよいと考えます。ある人は一切の法は分別によって起こると聞くと、もう分別したくもなくなり、ただ分別しさえしなければ心は空になって法もなくなると考えます。如来蔵は分別しないのだから、自分も分別すべきでない、それなら七日飢えても何の意見も持つ必要はない、と。 一切の法は確かに幻化のごとしですが、これは十住位以上の菩薩の修行の証量です。もし自分がこの修行の程度に達しておらず、まだこの実際の証量を持っていないなら、毎日幻化という言葉を口にしないでください。口頭禅になってしまいます。如来蔵は戒を持たないので、ある人々は自分も如来蔵のように戒を持つ必要はないと考え、任運逍遥し、放縦に振る舞います。自分の心が一切の貪瞋痴を具えていることを知らず、どうして放縦に振る舞い任運逍遥できましょうか。空論は往々にして国を誤ります。一丈言えるのに一寸も行えない人は、しっかりと着実に実際の修行をするのが最善であり、もう高談闊論したり、目は高く手は低くあるべきではありません。
——生如法師の開示
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