現代社会では多くの人々が抑うつ的な心理状態にあり、中学生までもが鬱病を発症しています。この問題の大部分は業力によるものであり、一部は個人の因縁によるものです。抑うつの主症状は心が閉ざされ、他者との交流がなく、内面の想いを表現できず、気分が沈滞して晴れやかさを失うことです。このような心理状態において、意識は往々にして理由が分からず、自らなぜ気分が沈むのか理解できません。これは意根の心境が円滑に通じないことによるものです。
意根に思想や感情を発散する道がなく、自らの考えや観念を理解してくれる者がおらず、ましてや誰に語り助けを求めればよいかも分からないため、誰も導きを与える者がいないのです。同時に自らの意識とも通じ合えず、意識が理解しないため問題が解決されず、意根が抑うつを生じるのです。多くの場合根本原因は業力の問題、すなわち意根が過去世で経験した出来事や造った業行がもたらすべき果報にあります。
個人の因縁による問題とは、心に願いがあっても実現できず抑うつとなり、環境が自らの心理的欲求を満たせないために抑うつとなることです。抑うつ状態の人々に普遍的な特徴は、考えることは多いが行動が少なく、そのため想いが実現せず心理的満足を得られず、想いが蓄積され過ぎて負担となり、抑うつが生じる点にあります。抑うつはまた志を得ず鬱々とするとも言い、様々な欲望があるにもかかわらず満たされず、気分の落ち込みと抑圧感を招くのです。
ある人々の内面には六神主無く生きる気力を失う想いが生じますが、これも意根の感情が主導して現れたもので、意識が表現しているのはまさに意根の心行です。六神主無しとは六識が何をすべきか分からず、どう行動すべきか分からない状態を指します。意根が決断を下さず躊躇い続け、終始命令を下すことを拒むため、六識はおののき惑うのです。六識を通じて意根の思想感情を表現し反応することが、すなわち六識の慌ただしさであり、主体性を失い帰属感がなく、そのため無為を感じ生きる意欲を失うのです。
感情が高ぶると心拍数が加速するのも同様に意根の感情によるものです。例えば「怒りが心頭に起こり、悪が胆辺に生ず」とは、意根が怒りを生じて悪を現す様を表します。心臓や胆のう、五臓六腑はすべて意根が脳神経システムを通じて制御しており、色身全体が意根の脳神経システムによる調節下にあります。意根は全身を制御し、全身の活動を導くのです。意識が怒りを生じても意根が怒らない場合は偽りの怒りであり、どれほど腹を立てても心に反応がなく、行動にも表れないか、あるいは行動があっても見せ掛けだけのものです。真に怒りが生じた時には、行為の造作と身心の状態変化が発生します。これこそが意根の情動なのです。
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