衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2024年10月24日    木曜日     第1 回の開示 合計4273回の開示

身・口・意の行いを適切に管理する要諦は意根を調伏することにあります

自らの意根を管理できれば、六識の身口意の行いを管理できる。阿羅漢の意根は既に調伏され、煩悩を断じ、世間に執着するものも貪愛するものもない。第三果より心は解脱を得、身口意の行いは清浄である。普段托鉢に出る際は、目は前方一尺の地を見つめ、眉を低く垂れて周囲や他方に目を向けず、眼は色塵に乱れず触れず、心は乱れず想わず、一心もしくは無心である。眼が色塵に触れざるを得ない時は、色を知って即ち止まり、受想を生ぜず、ましてや取を生ぜず、業種を留めず、後有を受けず、四大威儀は人天の大衆を感動させる。

仮に外境の熏染があっても、意識すら熏されず、ましてや意根は更に熏されない。たとえ意識が微かに動いても、意根は動かず、煩悩が断尽している故である。阿羅漢たちは意識で意根を督促・監督・調制せず、意根がかえって意識を制御する。修行が進んだ凡夫衆生は、意識で常に意根を監督し調制し、意根を制限しなければならない。意根が熏されていないため、制御しなければ人苗稼を犯し、本性が露わになる。故に常に意識で自らを戒める者は修行が未熟であり、ましてや意識すら迷妄で覚醒していない者は、修行があるとは到底言えない。ただ意根が熏された後、無明を破って初めて、身口意の行いが次第に清浄となり、自発的・自覚的になり、看護を必要としなくなる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

六識の身口意行は誰によって主宰されるのか

次の記事 次の記事

諸仏菩薩はなぜ悪薫を受けないのでしょうか

ページのトップへ戻る