衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年10月30日    木曜日     第1開示 合計4512開示

戒律の主旨と総則

凡夫の衆生は皆、悪が多く善が少なく、常に悪業を造り、悪業の流転に従って三悪道の常連となる。衆生に六道の生死輪廻の苦を断ち切らせるため、仏陀は次第に多くの戒律を制定された。仏陀が成道したばかりで戒律制定の因縁がまだ現れていない時期、弟子たちの身口意の行いを律し、修行の正道に歩ませるために、仏陀は弟子たちにこう諭された。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と。この言葉は修行を指導する総則であり、戒律の宗旨と総綱でもある。この総綱から更に具体的な枝分かれと細目を拡張し、衆生が次第に深く種々の戒律を受持し、戒定慧の三無漏学を円満させ、漸く成仏に至るよう導くことができる。この総綱の意味は、一切の悪行を行わず、一切の善法を実践し、自ら自らの心意を清浄にすること、これが十方諸仏の教える律行である。

一切の悪を断ち一切の善を修める。悪行を断ち尽くし善行を円満すれば仏道を成じる。この過程には定学と慧学が含まれている。なぜなら禅定がなければ悪を断てず善を修められず、智慧がなければ悪を断てず善を修められないからである。智慧があれば善悪とその果報を充分に認識・識別でき、初めて悪を断ち善を修めることができる。禅定が深く微細になるほど、断つ悪も深く微細になり、修める善法も深く微細になる。智慧が深く微細になるほど、断つ悪も多く微細になり、修める善も多く微細になる。故に戒定慧の三無漏学は一体不可分であり、分割すれば仏道を成就できない。智慧だけを求め戒定を求めない思想は極めて偏頗で智慧がない。では修行とは結局何を修めるのか、我々の心には明らかであるべきである。

悪を断ち善を修めることが総綱である。この総綱の下、粗から細へ、浅から深へと多くの枝分かれに分かれる。枝分かれが深く微細になるほど、智慧がますます深く、無明の煩悩がますます軽くなり、ついには無に至ることを示す。これらの枝分かれに対応するのは大小乗の各種律法であり、最も粗浅で基本的なのは小乗の五戒十善と八斎戒である。やや深く微細なのは小乗声聞戒:沙弥戒、沙弥尼戒、比丘戒、比丘尼戒である。最も深く微細なのは大乗菩薩戒:在家菩薩戒、出家菩薩戒、瑜伽師地論菩薩戒である。これらの枝分かれ戒は全て総綱から離れず、悪を断ち善を修める宗旨から離れない。枝分かれ戒はそれぞれ浅深異なる智慧に対応しており、小乗戒が対応する智慧は初果から四果および辟支仏の無生忍であり、大乗戒律が対応する智慧は十住から十回向位の無生忍と初地から十地の無生法忍である。

智慧の程度が異なれば、悪を断ち善を修める程度も異なる。これらの智慧は善悪とその境界を区別し識別できることに現れ、それによって悪法を断ち善法を行えるようになる。衆生は無明が深く智慧がない時、何が悪法で何が善法か認識できず、善悪行為の結果にも気を配れない。智慧は世俗の認知智慧、小乗の認知智慧、大乗の認知智慧に分かれ、智慧の程度が異なれば善悪法に対する認識も異なる。

戒律を守る過程で、正確に善悪を弁別できることは非常に重要である。悪法とは何か。悪法とは他者の利益を侵害する行為であり、その行いは自己に益があるかもしれないし、ないかもしれないが、結局は自身を損なう。故に悪行は智慧のない煩悩の行いである。他者の利益を侵害する一切の身口意の行いは全て悪行であり、無明によって引き起こされる。無明が重いほど悪行も重く、無明がどこまで除かれるかで悪法もその程度まで軽減する。最も粗い悪行は衆生への害が最大で、衆生は一般に識別・感知できる。やや微細な悪行は衆生への害が非常に明らかで直接的ではなく、識別・感知しにくく、往々にして習慣的行為によるため反省しにくい。最も微細な悪は最深の智慧で破らねばならず、無明が除かれず智慧が不足すれば悪を認識できず煩悩を克服できない。ここからわかるように、悪を断つには智慧が必要であり、智慧がない時は悪法の害とその結果を認識できず、悪心を降伏させられない。

善法とは何か。悪法とは反対に、衆生に有益な一切の身口意の行いは全て善法である。衆生に有益な行為は全て自身にも有益である。故に自他ともに益する善行は智慧の行いであり、智慧がなければ善を行えず、智慧が深いほど善行は大きく、自他への利益も大きい。

仏法全体として言えば、衆生に悪を断ち善を修めさせる法である。戒律を受持することは修行そのものであり、修行の全過程に貫かれている。世俗の大悪から小乗の小悪、さらに大乗の微悪へと至り、ついには一切の無明を滅尽して純善となる。同時に世俗の小善から小乗の無我解脱の善、さらに大乗の利他の大善、そして菩薩たちの慈悲喜捨・無縁大慈、十無尽願を経て、ついには諸仏の極善に至り、十方の浄土を建立し一切の有情を度尽し、善の極致に達する。戒定慧は元来一体不可分であり、一体から三つに展開し、方便をもって有情を摂受し漸次修行させる。故に戒律を受持することは重要であり、我々は日常生活において常に自らの身口意の行いを反省すべきである。悪習に流転して自覚しないままにせず、自覚は修行の非常に重要な一環である。知って初めて修正でき、修正すれば煩悩と業障を降伏させ、修行の正軌に乗り、遅かれ早かれ成仏する。


——生如法師の開示
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戒律を保つ結果は、体は自在に、心は円通に至る

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