衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年12月19日    金曜日     第1開示 合計4555開示

金刚経の解説・なぜ二果のスカーダガミーは「私はスカーダガミーの果を得る」という考えを持つことができないのか?

金剛経 一相無相分第九 原文:須菩提よ、どう思うか。斯陀含(スダーガーミン)は『私は斯陀含の果を得た』という念いを起こすことができるか。須菩提は言った。いいえ、世尊よ。なぜなら、斯陀含とは一往来と名付けられるが、実は往来はなく、斯陀含と名付けられるだけだからです。

釈:須菩提よ、この件をどう見るか。斯陀含の聖者は「私は斯陀含の果を証得した」という念いを持つことができるだろうか。須菩提は答えて言った:斯陀含の聖者はそのような念いを持つことはできません、世尊よ。なぜそう言うのか。斯陀含とは天界と人間界を一度往き来すると名付けられていますが、実際には往き来という事実は存在せず、ただ斯陀含という名称を与えられているに過ぎないのです。

この段落は前文の初果(預流果)の意味と同じである。真に二果(一来果)を証得した者は、五蘊(色受想行識)に対する自我の心がさらに空じられ、「私は二果を得た」という観念を持たず、ましてや「私が二果を得た」と執着して念々不忘にしたり、至る所で宣伝したり、ひたすら他人に知られないことを恐れたりすることはない。もし他人が信じなければ、怒って人を無視するほどに深い執念は明らかに凡夫の情執であり、初果や二果とは無関係である。

二果・斯陀含の煩悩は凡夫や初果の者よりも微細であり、命終して一度天界に生まれ、再び人間界に戻ってきて四果・阿羅漢を証得すれば、解脱して輪廻から出る。彼らもまた五陰(五蘊)や十八界を私と見做さず、心中に「私」という概念がない。ゆえに「私が斯陀含の果を証得した」とも「私が斯陀含の果を証得できる」とも思わない。斯陀含の聖者はもはや欲界の境界を実在する法と見做さず、これらはすべて六塵(色声香味触法)の境界に属し、ことごとく虚妄である。ゆえに天界に往生しても往く所はなく、人間界に戻っても帰る所はない。往来できる五陰の斯陀含なるものは存在しない。故に実は往来はないのである。

二果を証得した者は、今世の命終後に欲界天に生まれ修行を続け、欲界天で命終した後、再び人間界に戻って修行を続ける。四果・阿羅漢を証得して命終すれば涅槃に入り、もはや三界に生を受けて苦しむことはなく、三界の生死の苦から解脱する。これが二果・斯陀含の天上人間における一往来である。実質的に往来があるのか。往来はない。往来という事柄はすべて幻で実体がない。天上の五蘊も人間界の五蘊も幻化した実体のないものであり、一種の仮相に過ぎず、真相ではない。ゆえに二果・斯陀含も真に斯陀含が存在するわけではなく、斯陀含の相もまた非相であり、ただ仮に斯陀含と名付けられているだけである。我々は虚仮の名相に執着して心を浪費すべきではなく、我相と斯陀含相を滅すべきである。いかなる成就を得ても心を動かさず、執念を生じさせてはならない。そうでなければ生死輪廻に陥り、出離することができなくなる。


——生如法師の開示
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金剛経解説.なぜ三果阿那含は自分が三果人であるという念いがあってはならないのか?

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