この品で世尊は究竟無我を説き、須菩提に告げる。菩薩が広大甚深の菩提心を発し、無量の衆生を広く度した後には、我想と衆生想を滅除し、我相なく衆生相なく、心中に次第に我なくして究竟無我に至らなければならない。なぜなら、実際理地には確かに我がなく、人我であれ法我であれ存在しないので、すべて滅し尽くさなければならないからである。そうしてはじめて甚深の菩提心に相応し、自我を降伏し、心が清浄になって、諸仏ははじめてこれに授記して成仏させるのである。たとえ成仏しても、心中には我なく空であり、成仏という法相はなく、衆生を度するという法相もなく、いかなる一法相も存在しないのである。
原文:尔时须菩提白佛言。世尊。善男子善女人。发阿耨多罗三藐三菩提心。云何应住。云何降伏其心。
解釈:須菩提が仏に問うて言う。世尊、善男子善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発したならば、どのように住すべきであり、どのようにその心を降伏すべきでしょうか。
これは須菩提が衆生に代わって世尊に請問したものである。菩薩たちが大乗の菩提心を発した後、この心をどのように安住させるべきか。この心とはどの心か。それは菩提心を発することができる第六識・第七識の心を指しており、真に菩提心を発しない真心如来蔵を指すのではない。如来蔵はいかなる心も発せず、神様には心行がなく、願望もなく、成仏したいとも思わず、その心行は無所住である。須菩提の智慧をもってすれば、世尊に如来蔵はどのように住持すべきかと問うことはないであろうし、まして世尊もすでに金剛般若の心が無所住の体性であることを説かれている。須菩提が問うのは、菩提心を発することのできる妄心が、清浄な大願を発した以上、従来のように世俗法の色声香味触法に住し、五陰に住すべきか、これらの世俗法のために発心すべきかどうかである。大乗の菩提心を発した後は、もはや従来のように一切の世俗法相に執着すべきではなく、貪瞋痴の煩悩が炽盛であってはならず、この心を降伏すべきであるが、ではどのように降伏すべきなのか。
原文:佛告须菩提。善男子善女人。发阿耨多罗三藐三菩提心。当生如是心。我应灭度一切众生。灭度一切众生已。而无有一众生。实灭度者。
解釈:仏は須菩提に告げて言う。善男子善女人が阿耨多羅三藐三菩提心を発したならば、このような心を生ずべきである。すなわち、私は一切の衆生を滅度すべきであり、一切の衆生を滅度し終えた後には、内心里に、私は実際には一つの衆生をも滅度していないと知るべきである、と。
ここでの滅度には二つの意味がある。一つ目の意味は、衆生が五陰無我を証得した後、次第に我執を断じ尽くし、四果まで修行して無余涅槃を取り、解脱を得ることを指す。無余涅槃の後には五陰と七識がすべて滅し、十八界法がすべて消滅し、三界世間の相もすべて消え、ただ一つの不生不滅の金剛不壊心如来蔵のみが残り、一无所有の寂滅無所為の境界にあって、この衆生は消滅滅亡する。これを滅度と呼ぶのである。
滅は滅したのであるが、なぜ度したと言うのか。この衆生は、もとは六道の中で輪回して悪業を造り、無量無辺の数の苦悩を受けていたが、今や意根が一念無明を滅し尽くして、もはや生死輪回の業を造作せず、まして業に随って三界世間に輪転して生死の苦を受けることもない。これより後、神様には生死も苦受もなくなり、いわゆる神様というものももはや存在しない。真の神様である如来蔵は業を造らず、生死もなく、まして苦を受けることもなく、純粋に寂滅無為である。それゆえ、度とは生死の苦を度越し、六道輪回を渡り切ることである。
滅度にはもう一つの意味がある。すなわち、菩薩が衆生に実相心如来蔵を証得するよう教導した後、七識の妄心が次第に無明煩悩と煩悩習気を滅し、八識がすべて転識成智して、究竟円満の無上尊となり、もはや衆生ではなくなる。こうして、この衆生は滅度され、完全に一尊の果位の仏世尊となり、もはや理上の仏であるだけでは決してなくなる。このように衆生が滅度されるのは、究竟に滅度されたのであり、最も善く最も完璧な滅度であり、尽善尽美で、一丝の遺憾もない。
このようにして、すべての衆生が滅度され、無量無辺の衆生がすべて滅度された後、心の中にもこのような念想はなく、自分がすべての衆生を滅度したとは考えず、自分は一つの衆生をも度化していない、一つの衆生も度化されていないと感じるのである。これは奇妙である。なぜ一つの衆生も度していないと言うのか。明らかにすべての衆生を度したのに。
32
+1