究竟無我分第十七原文:何以故。须菩提。若菩萨有我相人相众生相寿者相,则非菩萨。所以者何。须菩提。实无有法。发阿耨多罗三藐三菩提心者。
解釈:なぜこのような心を生じさせるのでしょうか。須菩提、もし菩薩の心の中に我相・人相・衆生相・寿者相があり、まだ四相を破っていなければ、実相を証得しておらず、その者は真の菩薩ではありません。なぜその者が真の菩薩ではないのでしょうか。須菩提、世間には実は阿耨多羅三藐三菩提心を発するという法はなく、菩提心を発する者もいないからです。もし人に我相・人相・衆生相・寿者相があれば、我見を断しておらず、これもまた菩薩ではありません。
実相心を証悟した菩薩は、四相を破ってこそ真の菩薩であり、我相は実有に非ず、人相は実有に非ず、衆生相は実有に非ず、五陰に依って有る寿者相もまた実有に非ずと証得します。内心でもはや五陰のさまざまな虚妄の相を真実と認めず、次第に世俗の五陰のさまざまな有為法の相に執着しなくなります。菩薩がこのとき衆生を度しようとすれば、度すべき衆生はなく、度される衆生もなく、度す私もなく、発心する私もなく、私を発心させる法もないと知るのです。
なぜ阿耨多羅三藐三菩提を発する法が無いのでしょうか。この言葉は三つの面から理解できます。第一の面は、大菩提心を発することができる菩薩はいない、ということです。なぜなら菩薩は五陰の相をもって現れているのであり、菩薩の五陰もまた虚妄で実有に非ず、真の菩薩ではないからです。第二の面は、菩薩が依止して大菩提を発させるような法はない、ということです。菩薩が成仏して衆生を利楽する心を起こすのには、さまざまな原因と理由があります。衆生の苦を見て発心する者もいれば、自分の苦しみによって、衆生も同じように苦しんでいることを思い発心する者もあり、諸仏の無量の功徳を欣羨して発心する者もいます。これらの発心の起因は数多く、一つとして同じものはありません。しかしすべての発心が依止する内容は、いずれも虚妄であって、幻化不実なのです。
第三の面は、大菩提心を発するという法は存在しない、ということです。菩提心を発するという法は、五陰と世俗法とが結び合わさることによって有り、顕現してくるものです。五陰は虚妄不実であり、世俗法の相も虚妄不実であるなら、この二者に依って有る大菩提心を発するという事柄は、虚幻不実であり、生滅法なのです。
菩薩が発心して衆生を度すとき、どのような心持ちで衆生を度すべきでしょうか。菩薩が衆生を度すのは三輪体空であり、四相がなく、無我・無人・無衆生・無寿者の空の心をもって衆生を度すべきです。我相は空であるから、真実の私が衆生を度すということはなく、人相と衆生相は空であるから、度される衆生もなく、ならば私が衆生を度するという事柄自体が空であり、実有ではないのです。菩薩もし「私が衆生を度した」「衆生が私に度された」と執念を持つならば、無我を証得しておらず、心が空でないので、真の菩薩ではありません。衆生は空であるのに、どうして度されることがありましょうか。私も空であるのに、どうして度すことがありましょうか。それゆえ菩薩は一切の衆生を滅度したとはいえ、実際理地においては、一人の衆生も度された者はないのです。
菩提心を発する人は空であり、菩提心を発するという事柄も空であって、幻化のものです。事としては有り、理としては無く、有といっても仮有です。この幻化の事をもって修持すれば成仏することができますが、成仏という事もまた空であって、幻化のものです。実際理地には成すべき仏もなく、得るべき凡夫もなく、すべては夢幻泡影であり、虚无縹緲として、真にあらず偽にあらず、また真でありまた偽であり、真幻虚実、把捉するに労するところがありません。事は為すべきであり、心は空にすべきです。菩薩は衆生を度すだけでなく三輪体空であり、布施 (dāna) などの六度万行をすべて三輪体空で行い、一に空に徹してこそ始めて家に到るのです。
2
+1