意根は眠りません。六識がすべて滅しているときは、眠るとも言えず、眠らないとも言えません。では、誰が眠っているのでしょうか?この問題についての思考は、仏陀が私たちに教えた四念処の観行 (vipaśyanā-caryā) と同じ道理であり、同じ用功の方法です。ただ観る、現量で観る、思惟など何も動かさなければ、現量の触証があり、我見 (satkāya-dṛṣṭi) は自然と断てます。ひとたび意識の思惟を動かせば、感覚は変わってしまい、現量境がなくなり、結果は親切でなく、真実でなくなります。
無相は空性 (śūnyatā) であり、有相もまた空性 (śūnyatā) です。だから空というのは、必ずしも相を滅さなければならないのではなく、相を見ながら、その当下で空なのです。これらの法を弄通し、智慧が通达すれば、成仏します。これらの法を弄通しようと思うなら、意識の思惟では絶対にだめで、思惟すればするほど道から遠ざかり、ますます現量境がなくなります。必ず意根で現量に感知し、現量に触れ、最後にようやく現量に証することができます。自ら体験し、自ら経験してこそ、自ら感受できるのです。親というのは、意根自身が自ら直接にということで、意識に代わりをさせないということです。
意識で聞いたものは一つの層次であり、現量で観察したものは一つの層次であり、自ら触証したものはまた一つの層次であり、それぞれの層次の感触はみな異なり、身心の反応はなおさら天と地ほどの差があります。意識で聞いたものは、今から見れば、一体何なのでしょうか?
君若兰:今日、師父のこの言葉を見て、私は思惟を止めて身の回りの人や物事を見ることを試みました。覚知はあるのに、内心がずっと静かだと感じられます。このとき、師父の言われたこの言葉は私自身の現量の観察であり、今後私がこの言葉を言うとき、完全に学んで来たものではなくなります。
評:この状態は一念不生に類似したものであり、意識の思惟は停止していますが、思惟せず、動念せず、静かな意識が覚知と観察をしており、依然として意識の覚知と観察の中にあって、意根の現量の感知と観察ではありません。意根の現量の観察は、必ず定 (samādhi) の中で、一心一意の専注の中になければなりません。意識のさまざまな状態をはっきり認識できれば、意識と意根を区別できるようになり、意識と意根のそれぞれがどんな特徴と性質を持っているかをはっきり区別してこそ、自分の覚知・覚察が果たして意識によるものなのか、それとも意根によるものなのかを正しく判断できるのです。
学んだ法の基礎の上でさらに理解することも、証ではありません。証でない以上、完全に自分の胸の内から掏り出したものではありません。現量の観察があったとしても、この観察の智慧には多くの層次があって、最高の層次は現量の証に達することができますが、それ以前は完全に自分の智慧ではなく、なお学語の成分が残っています。
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