衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月09日    月曜日     第1開示 合計4643開示

意根はなぜ六識を用いるのか?

六識は大きな阻害作用を持っており、六識を使うと意根が注意を散らされ、集中できなくなり、禅定力と慧力の生起を障害する。意根は万やむを得ないときにのみ六識を使って自分に奉仕させ、意根自身に能力があって自ら手を下せるときには、六識を使わない。六識を一度使うと、意根は役に立たなくなり、能力が鍛えられず発揮もされなくなる。そして一切法は実質的にも最終的にも意根本身が必要とするものであるから、できれば意根自身に機能作用を発揮させ、できるだけ六識に依存しないようにするのが最善である。しかし一般の人は禅定がなければそれはできない。八地菩薩の位まで修めて初めて完全に六識に依存せず、六識の機能作用を代替できるようになる。意根が六識を代替するとき、それを六根互通互用と呼ぶ。

如春:以上の文章の中にいくつか私が分からない点があります。1、六識と五陰は意根に対して阻害作用を持つのに、なぜ意根は彼らを生み出そうとするのですか? 2、万やむを得ないとはどのような状況を指すのですか?

回复:意根は単独では事を成すことができず、たいていの場合、六識に依拠して六塵を了別し、意識に協力させて思惟・分析し主意を決めなければならないからである。しかし六識の活動量が大きくなると、意根は多くの塵境や俗事に対応せざるを得なくなり、心が静まらず、智慧が生まれなくなる。万やむを得ないというのは、自分の事を他人に代わりにやってほしい人がいるだろうか、ということである。意根は自分の精力と能力に限りがあるため、やむなく助けを求めるが、やはり誰がやっても自分でやるには及ばない。六識を一度使うと、諸事が紛雑となり、定を得ることは非常に難しくなる。考え方があまりに活発な人は定を修めるのが難しく、想像力が豊かな人は定を修めるのが難しく、関心を持つ事柄が多い人は定を修めるのが難しく、思惟を好み、思惟の多い人は定を修めるのが難しい。要するに、塵境から心を収めようとしない人は定を修めるのが難しいのである。

蓝天:意根に無明や煩悩が比較的重いときには、第八識の見分および大脳の勝義根の内相分に基づいて外部の事物を判断・処理することが難しく、そのため意根は前六識を生み出して分析・処理を助けさせなければならない。そして六識を生み出した後、六識が受け取る情報が比較的広く雑多であるため、意根の外部への攀縁性がさらに大きく増し、意根の集中性をさらに妨げ、意根の思惟判断力に影響を与えることになる。こうして意根は六識の判断結果に依拠して意思決定をせざるを得なくなり、それによって意根の作用が弱められる。だからこそ、禅定を増やし、煩悩を降伏させ、外部からの受覚を減らすことによってのみ、意根の作用を強めることができるのである。

如春:意根は一念無明のために、自分が虚妄であることを知らず、いつも自分を表現するための舞台が欲しいと思い、そこで五陰の身を生み出して道具とし、これが自分であると感じている。五陰の身を得た後、さらに多くの法を執取して了別し、自我を強大化しようとして、そこでまた六識を生み出して隊列を壮大させた。六識は神様にとても従順で、攀縁してより多くの法を執取し、意根に提供する。意根はそのためいっそう忙しくなり、一方では第八識が与える法に縁し、他方では六識が了別した法を処理しなければならず、精力とエネルギーがますます分散してしまう。総じて言えば、意根は貪りすぎたために、結局自分で自分を坑むような事をしてしまったのである。

——生如法師の開示
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