仏陀は供養を受け説法したが、五百人の比丘とともに三ヶ月間馬の麦を食べた。比丘たちは馬の麦を食べて苦しみの極みであったが、仏陀は馬の麦を食べてこれこそ食べ物の中の最上の味だと感じた。これは何を意味するのか?仏陀はどんなことに遭遇しても、心配もなく、考えもなく、見解もなく、意見もない。なぜなら仏陀はすでに意識を使って何かの法を明らかにしたり、何かの法を分析して考えたりすることがなく、常に意根の智慧の習慣に従って、やるべきことをやるだけであり、そんなに多くの念などあるはずがないからだ。
仏陀は自身の福徳のゆえに、何を食べても自然に最上の味であり、わざわざ意念を込める必要もない。これは三大阿僧祇劫の修行の果報である。だからガンジス川で馬車の群れが去ると、仏陀は阿難にガンジス川の水を取りに行かせて飲んだ。たとえ誰かが仏陀に砂や土を供養しても、仏陀はそのまま受け取り、供養した人に福を得させた。仏陀の色身は三界の世間で最も精貴な身であるが、この色身を維持するのに最も高価な物質は必要なく、安価な物質で色身の運行の需要を満たすことができる。たとえ何の物質的な供養がなくても、仏陀の色身はそのまま輝き、世界を照らすのだ。
例えば会社を経営してお金を稼いで家族を養うようなものだ。ある人は十万二十万の低コストで会社を立ち上げ、正常に運営でき、しかも高い収益を上げられる。低投入・高産出で、効率は極めて良い。一方、ある人は動けば数千万、数億のコストを投入し、千万未満では正常に運営できず、しかも効率は必ずしも理想的ではない。まさに高投入・低産出と言える。それぞれの人の色身と家庭の維持は会社を経営するようなもので、ある人や家庭は低コストで生活しても十分に満足し、楽しく暮らせる。しかしある人や家庭は高い投入をしなければ満足や幸せを感じられず、豪華な食事や高い消費がなければ生きられない。消費しているのは誰の福なのか?コストは誰が負担するのか?色身の行き着く先は最終的に皆同じで、一握りの灰と白骨になる。では、どのような生活が富貴で成功なのか?どの会社が本当に利益を上げているのか?
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