盲人に雪の白さを説明しようと、全力を尽くし、あらゆる比喩を使い果たしても、盲人には雪の白さが理解できない。ついには説明する者が焦り狂ってしまう。
法が深ければ深いほど論争は大きくなり、智慧が浅ければ浅いほど論争も大きくなる。現量で観察することができず、智慧が足りないため、想像や憶測に頼るしかなく、名声の大きい者に頼る。名声が大きければ大きいほど仏の教えにかなっていると思い込む。しかし法に依るべきであり、法が深すぎて観察できなければ、依止することはできない。
世俗の世界でも同じである。階層が低ければ低いほど論争が多く、すべて低い次元の観念に対して争いを起こし、是も非も多く、止むことがない。階層が高ければ高いほど、高い次元の問題について論じるが、低い次元の是非は少ない。智慧の高い集団にはほとんど論争がなく、静かで寂静であり、和やかな風が細やかに潤すかのようである。例えば大菩薩の集団や、他の殊勝な仏国土では、論争どころか、話し合いや会話の声さえもない。聖人たちの思想は一致しており、互いに通じ合い、何の隔たりもない。
衆生の智慧が低いために、名声の大きい者に頼らざるを得ない。だから名声のある者が法を説くときは、慎重に慎重を重ねなければならない。影響力が広く、教化する人が多く、長く伝わるからである。もしその中に少しでも誤りがあれば、その誤った考えは後世に長く伝わり続ける。名声の小さい者が正そうとしても、衆生は最初から名声が大きくない者を認めないため、弘法の妨げとなる。たとえ仏陀が姿を変えて再び正そうとしても、最初は名声が大きくないため、衆生は信じない。
世俗界でも仏教界でも、朝綱を安定させるために、個人が大いに名声を築くことを防ぎ、影響力を極力拡大することを防いでいる。なぜなら、ひとたび信者が多くなり影響力が大きくなれば、もしその人が悪意を抱いていれば、その個人的な影響力を利用して信者を悪へと導き、国家や仏教全体の利益を損なうことになるからである。人がわざわざ自分を宣伝し、名声を広めようとするならば、必ず特別な目的がある。後々、大きな問題や厄介ごと、破壊力を生むことになる。このような例は決して珍しくなく、近年の仏教界にもそのような人や出来事があった。幸いなことに、娑婆世界には釈迦牟尼仏の教主が見守り支えておられるおかげで、さらなる大きな動乱を免れたのである。真の菩薩は、すでに心は空にして何も求めず、すべての世事を見破り、無我無私であり、内心は寂静で、大いに寂静である。どうして名声や利養を大いに求め、悪意をもって仏教を傷つけ、多くの悪をなして、阿修羅のように仏教界に広く争いを巻き起こすことなどあろうか。
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