究竟無我分第十七原文:須菩提。如来の得たる所の阿耨多羅三藐三菩提は、是の中に実も無く虚も無し。是の故に如来说く、一切法は皆是れ仏法なり。須菩提、言う所の一切法は、即ち一切法に非ず。是の故に名けて一切法と為す。
解釈:須菩提よ、如来の得たる阿耨多羅三藐三菩提の法は、実際には実有でもなく、また虚妄でもなく、実と虚の二者が結合して、共に菩提の大道を成すのです。故に如来说く、一切法は皆仏法であり、この一切法の中には実もあり虚もあり、真実と虚偽が混ざり合って一切法を構成しています。須菩提よ、私の言う一切法は、本当に何かがあるから一切法と呼ばれるのではなく、一切法もまた真に実有の一切法ではないので、故に仮に一切法と名付けるのです。
なぜ仏は、如来の得たる阿耨多羅三藐三菩提の法は、実でもなく虚でもない、実とも言えず虚とも言えないと言うのでしょうか。なぜなら、成仏というこの法は、実と虚が結合したものであり、虚の法だけでは虚の法は成立せず、実の法だけでは実の法には縁と動力がなく、何もできず、何も成し遂げられないからです。この実の法とは、五蘊世間の万法を生み出す根源であり、法身仏である如来蔵の無垢識です。そして虚の法とは、無垢識が変現した五蘊世間の法です。そうすると、成仏というこの法は、如来蔵と五蘊身が共に和合して成るものであると分かります。もし成仏というこの法が虚妄であると言うなら、それは全て如来蔵の所為であり、全て如来蔵の性質です。もし成仏というこの法が実であると言うなら、そこには仏の虚妄なる五蘊の参与と運作があり、五蘊を離れては仏の影を見つけられず、五蘊を離れては仏とも呼べません。故に、如来の得たる阿耨多羅三藐三菩提の法は、実でもなく虚でもないのです。
なぜ一切法は、即ち一切法に非ず、是の故に名けて一切法と為すと言うのでしょうか。なぜなら、表相上の一切法は、全て自分自身で存在する自性を持たず、全て如来蔵が様々な縁に従って変現したものであり、空幻で実在せず、空花や幻影のようであるため、一切法を実有の自性を持つ法と見なすことはできないからです。一切法は現象上は存在するように見えるので、それらの法に仮の名前を付けて、衆生間の言語交流や世間での生存の必要に資するのは差し支えありません。
例えば、戒定慧の法を修学することは、五陰身心の表面的な活動であり、五陰身心には自性がなく、全て如来蔵がその背後で運作して生み出した機能属性であるため、仮に戒定慧を修すると名付けます。経典を読誦することも、五陰身心の表面的な活動であり、自性がなく、仮に経典を読誦すると名付けます。悪口で罵ることは、五陰身心の行為造作であり、表面の現象で、人の目を惑わすだけであり、仮に悪口と名付けます。明心見性は、五陰身心の智慧の境界であり、自性がなく、仮に明心見性と名付けます。思惟観行は、五陰身心の活動であり、虚妄の生滅法で、実在せず陽炎のようであり、仮に思惟観行と名付けます。行住坐臥は、五陰身の行為造作であり、自性がなく、幻化して存在するものであり、仮に行住坐臥と名付けます。要するに、一切法は全て仮の名前に過ぎないのです。
原文:須菩提。譬えば人身の長大なるが如し。須菩提言わく、世尊。如来说く人身の長大なるは、即ち大身に非ず。是の故に名けて大身と為す。
解釈:須菩提よ、例えば人身の長大ということは、一切法の中の一つの法です。須菩提は答えて言いました。世尊よ、如来の説かれた人身の長大なる相は、真の大身ではなく、ただ大身という名前を取っているに過ぎません。
なぜ如来の説かれた大身は、即ち大身に非ずとなるのでしょうか。なぜなら、人の身体の大小の相貌は、ただ如来蔵が幻化した仮の相であり、実質的な大小の相はないからです。いわゆる大身の相は、如来蔵が四大の種子を用いて積み上げた一つの幻相であり、その大小長短は、全て相対的に言われるもので、必ず何らかの物を参照し、比較があって初めて大小長短と定められます。そしてその比較の対象も、真実ではなく、依頼性や可比性はありません。故に人身の長大は、即ち大身に非ず、名前だけの大身であり、実質的な大小の説はないのです。
原文:須菩提。菩薩も亦た是くの如し。若し是くの如き言を作さば、我当に無量の衆生を滅度すべしと。即ち菩薩と名けず。何を以っての故に。須菩提。実に有る法無し。名けて菩薩と為す。是の故に仏説く。一切法に我無く人無く、衆生無く寿者無しと。
解釈:須菩提よ、菩薩もまたこのようであり、心の中に一つの法相も執着せずに、菩薩行を行う者こそ、真の菩薩です。もしある菩薩が衆生を度そうと誓願し、「私は無量の衆生を滅度すべきである」と言うなら、その菩薩はまだ真の菩薩ではなく、まだ実相を証得し、実相の中に入っていません。なぜこのように言うのでしょうか。須菩提よ、なぜなら、実際の理の境地の中には、菩薩とか我とか呼べる法は何もないからです。故に、仏は一切法の中には我もなく、人もなく、衆生もなく、寿者もない、この四相がないと説かれるのです。
真の菩薩とは、既に実相を証得した菩薩であり、実相を証得した菩薩の心の中では、もはや世俗の相を執着すべきではありません。いわゆる世俗の相とは四相であり、まず菩薩は我相を持つべきではなく、そうであれば菩薩相を持つべきではなく、度されるべき衆生相を持つべきでもありません。これらの相は五陰相であり、全て如来蔵が幻化した仮の相であり、実有の法ではなく、まるで天上の白い雲が幻化した猫や犬の形象のように、実在の猫や犬を捉えることはできず、全て雲の相です。真の菩薩は菩薩相を執着すべきではなく、我相を執着すべきではなく、衆生相を執着すべきではありませんが、それでも我をもって無量の衆生を度し、心なくこれらの菩薩行を行うことこそ、真の菩薩なのです。
原文:須菩提。若し菩薩是くの如き言を作さば、我当に仏土を荘厳すべしと。是れ菩薩と名けず。何を以っての故に。如来说く仏土を荘厳する者は、即ち荘厳に非ず。是の故に名けて荘厳と為す。須菩提。若し菩薩通達して、我無き法あらば、如来说いて名けて、真に是れ菩薩と為す。
解釈:須菩提よ、もしある菩薩がこのように言うなら、「私は仏国土を荘厳すべきである」と。それは真の菩薩ではありません。なぜこのように言うのでしょうか。如来说く、いわゆる仏国土を荘厳するという行為は、真に仏国土が荘厳されるべきものがあるわけではなく、真に荘厳という事があるわけではなく、ただ仮に仏国土を荘厳すると名付けるだけだからです。須菩提よ、もしある菩薩が既に無我の法に通達し、諸法無生を証得したなら、如来はこの菩薩を真の菩薩であると言われるのです。
菩薩は三大阿僧祇劫の菩薩道を修行して、いったいどのようにして仏国土を荘厳するのでしょうか。全ての菩薩の修行は、身口意の行いの造作を通じて実行され、菩薩の一つ一つの善法の修行、善業の蓄積は、全て仏国土を荘厳しています。では、仏国土を荘厳することは、菩薩の身口意の行いを通じて荘厳されるのです。なぜ全ての菩薩行が仏国土を荘厳することになるのでしょうか。私たちは知るべきです。仏国土はどこから来て、どのように現れ、なぜ仏国土に違いがあるのかを。
菩薩は三大阿僧祇劫の修行を経て、仏道を成就し、それから無数の仏国土を現じます。これらの仏国土は、全て仏の無垢識から変現されたものであり、無垢識が仏の善業の種に従って変現したものです。では、善業の種はどこから来るのでしょうか。もちろん、仏が仏法を学び菩薩となり始めてから修行し、修得した種子を、一滴一滴如来蔵の中に蓄え、そして如来蔵が種子に従って仏国土を現じるのです。
菩薩の修行には、大いなる清らかな願いを発すること、戒定慧を励み修めること、貪瞋痴を消し滅ぼすこと、一切の仏法を読誦し受持すること、菩薩の六度を修行すること、煩悩を除き去り、無明を滅し、染汚の種子を滅し、清らかな種子を蓄え、最後に識を転じて智と為し、大円鏡智を成就し、無量の仏国土を変現し、広く限りない衆生を利することを含みます。そして菩薩が修行の過程において、願力の違いや具体的な行持の違いにより、その業種も異なり、成仏時に変現する仏国土も異なります。故に、菩薩が修行する全ての善業の行いは、全て仏国土を荘厳するものであり、また五陰身心の行為造作であり、五陰身心は幻化して実在しないため、仏国土を荘厳することは、即ち仏国土を荘厳することに非ず、仮に仏国土を荘厳すると名付けるのです。
最後に、世尊は総括して言われました。もしある菩薩が無我の法に通達できるなら、それこそが真の菩薩であると。なぜこのように言うのでしょうか。なぜなら、無我の法に通達した菩薩は、次第に一切法に通達するからです。一切法は全て五陰の我を中心に展開しており、五陰の我が無くなれば、一切法も無くなります。五陰の我が実在せず、一切法も実在せず、五陰の我に実質がなく、一切法にも実質がありません。そして菩薩が一切法無我に通達したなら、ますます深い無生法忍の智を証得し、その菩薩の位は地ごとに向上し、その道種智が円満した後、一切種智となり、仏道も円満するのです。
なぜなら、仏には五眼六通があり、一切法を徹見し、一切の衆生を徹見し、全ての衆生の心を、如来は悉く知り悉く見るからです。如来は衆生を見ることができ、また衆生の如来蔵の心を見ることができ、それによって衆生の心を知るのです。そして衆生の現在心、過去心、未来心は全て得ることができません。なぜなら、生滅幻化するものであり、長く続かないからです。
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