衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月06日    木曜日     第1開示 合計4801開示

意根に三種の受があることの証拠(三)

もし意根が如来蔵のように捨受しか持たないのであれば、如来蔵と同様に一切の境界に対して如如不動であり、いかなる境界が現前しようとも、八風に吹かれても動じず、紫金蓮に端座し、良い境界を取らず、悪い境界を捨てず、心中で境界の善悪美醜を分別しないのであれば、六識を促して喜びと厭いの貪瞋痴の行為を造作させることもなく、まして衝動的に行動することもないはずである。物事に遭遇しても怒髪天を衝いて拳を振り回し蹴り飛ばすこともなく、喜びを顔に表して手を打ち踊ることもなく、すべてが淡々としており、何に対しても無関心な様子であるはずだ。

もし意根がいかなる境地にあっても無関心で、常に捨受であるならば、煩悩はなく、観行 (vipaśyanā-caryā) を通じて自心の煩悩を調伏する必要もなく、神様は永遠に清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、永遠に六識を主導して貪瞋の業行を造作させることもなく、喜び、愛楽、貪愛などの思想感情が現れず、怒り、嫉妬、不平などの思想感情が現れることもないはずである。そうであれば意根には平等性があり、心は一切の境界に対して平等であり、偏りがなく、怨親も一律に平等に扱い、怨親の別なく、公平公正であるはずだ。心中で極楽浄土を欣楽することもなく、娑婆の穢土を厭棄することもない。成仏して祖となることを好むこともなく、三界を厭離して涅槃に入ることもないはずである。

もし意根が捨受であるならば、神様そのものが如来蔵と同様に解脱しており、善悪の境界いずれにも束縛されず、一切の境界に対して受けない、すなわち解脱した心であるはずだ。しかし実際の状況はそうではない。意根の貪瞋痴の煩悩は非常に重く、貪る心は抜け出せず、瞋の心は自ら救えず、三界の法、特に三悪道にぎっちりと束縛されて脱することができない。それゆえ、意根は単に捨受だけでなく、三受すべてを有しており、捨受のときは少なく、苦楽の受を捨てるまで修得できるのは、非常に容易なことではなく、非常に得難いことなのである。

多くの場合、理由もなく感情的になり、喜んでいるのか喜んでいないのか、意識はなぜなのか分からない。その喜びや不喜びはどこから来たのか、意識はときに原因を考えようとするが、ときにはどう考えても分からない。意根は実に捉えがたいものだからである。喜びが顔に表れるとき、意識は「私の喜びを人に見られてはいけない」と言うが、それでも思わず興奮が止まらない。これは誰がこんなに喜んで楽しいのか、意識には制止できないのか。それは意根の楽受であり、意識にはときに制御しにくく、まして意根は自らの感情を制御できない。喜びが顔に表れるとき、意識は「私は喜びを人に見られてはいけない」と言う。

たとえば、ある事柄に対して意識は非常に堪えたいと思いながらも、結局堪えきれずに感情が爆発し、制御できないことがある。これは意根が憂鬱で苦悶し、怒りの苦受を感じた結果である。ときに、ある事柄に対して恐怖に震えることがある。意識は自分に言い聞かせる。「怖がることはない、大したことではない、何も起こらないはずだ」と。それでも恐怖が止まらない。これは誰が制御できない恐怖なのか。意根の恐怖は制御しにくく、このとき意根は苦受である。

——生如法師の開示
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