衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年09月15日    火曜日     第1開示 合計4838開示

欲とは、願望、意欲、憧れ、希求のことである。例えば極楽世界を憧れる場合、意識だけが憧れていて意根が憧れていなければ、念仏 (buddhānusmṛti) には用がなく、極楽世界へ行くことはできない。同時に意根の憧れと欲求がなければならず、初めて極楽世界に生まれることができる。意根の憧れと欲求を深信切願という。

意根に何の考えも願望もなければ、一切の事業は成就しない。意根がもはや三界の世間法を希求しなくなれば、命終すると無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入る。阿羅漢とは、意根がいかなる世間法も希求せず、世間の一切の法に対する欲望と所求を断って、命終の時に世間の一切の法が現起しなくなり、そこで意根が滅して、生命も世間もなくなるのである。意根が証果を望み、明心見性を憧れることで、初めて精進して仏法を修行することを決択し、絶えず三十七道品を満足させることができる。意根にこの考えや所求所願がなければ、精進して用功することはなく、意識の考えは決定的な作用を起こさず、意根を薫染して初めて用をなす。意根が仏を学びたくないのであれば、意識は仏法を思惟することができず、意根に随順して世俗法に攀縁し、世俗の事を行うことになる。

想要とは、すなわち希求であり、欲望である。意根に欲がなければ、決択を行わず、趣向することができず、行動を取ることもなく、それに対応する法も生まれない。意識が修行したい、精進したいと思っても、意根を駆り動かしていなければ、それは単なる一つの考えにすぎず、真の精進はあり得ず、実際の行動もあり得ない。実際の行動は意根が決定して造作するのである。

<h2 style="text-indent: 2em;">欲如意足とは意根の欲を満たすことである</h2>

欲如意足とは、心に力があって自分の欲望を実現でき、思うままに称心如意となり、自分の所求を満足させることであり、これは意根の欲を指す。欲如意足は主として意根の定 (samādhi) であり、意根の意である。意識による修習を通じて、意根に目標に達する力を持たせ、意根の欲望を満足させるのである。禅定を修習する際、飛昇変化を望む心もまた意根を指し、そこで如来蔵 (tathāgatagarbha) が意根の思心所に配合して、意根の所需と欲望を満たし、色身に飛行変化させる。この中には同時に意識の欲望もあるが、意識の欲望は意根を駆り動かし導くために用いられるものであり、意根にも同じ欲望を持たせるのであって、結局は意根の欲望が決定的な作用を起こすのである。欲望の後ろには如来蔵の配合があり、意根の願を満たすのである。

欲如意足は主として意根の欲であり、意根が如意となり、欲望を満足させたのである。意根に力があって、ある目的を達成しようとするとき、如来蔵は意根を満足させざるを得ない。意根に力がなければ、如来蔵も配合するすべがない。その中ではやはり意識の観想と牽引に頼って意根に配合し、目的を達成するのであり、意根は六識と第八識を利用して、自分の一切の所求所願を実現するのである。意根の力とは、禅定力、決択力、主宰力である。

——生如法師の開示
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