衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年09月28日    月曜日     第1開示 合計4851開示

意根と意識の心の体性は、一般の人には区別が難しく、特に二つの心の心所法に関しては、なおさら区別が難しい。意根の体性は深く細やかで知りがたく、心所法はさらに微細であるため、転識成智の智慧の境地にまで修めていなければ、意根の働きを現観することは非常に難しい。それゆえ心所法を観察することができず、意根と意識の体性および心所法に対して多くの誤解を生じ、混同して曖昧な点が非常に多いのである。

たとえば、意根には意欲がなく、意根には何かを得たいという心行も一切ないと言う人がいる。欲しいという気持ちも意欲も、いずれも意識の心の欲心所であり、意根には欲心所がないから、意根には意欲がなく、目的を達したいという心行もない、と。しかし、もし意根に自分自身の意欲や、何らかの目的を達成しようとする心行がないとすれば、意根は何に基づいて決択を下すのだろうか。何に基づいて主宰するのだろうか。万法はいかにして意根によって成し遂げられるのか。意根は依然として万法を現起させるエンジンなのか。意根に意欲も目的もないなら、六識は何に依って行動し、造作するのだろうか。

この欲心所の欲について、瑜伽師地論にはこうあります:于可乐事。随彼彼行。欲有所作性。これが欲心所の特性である。つまり、識の心は楽しむべき境地、好きな境地に対しては、自らの欲心に随順して、何かを成し遂げようとし、そのような境地を所有することを望み、それによって自分の目的を達し、自分の欲望を満たそうとするのである。六塵の境界に対して、六識の心には希求があり、願いがあり、貪欲があり、欲求がある。しかし意根にも欲望があり、願いがある。心の底から湧き出る欲望と願いであり、六識を鼓吹して欲心を起こさせるものこそ、意根の欲望なのである。意根に欲望と願いがあるからこそ、意識にも同じような願いを持たせ、六識を駆り立てて自らの願いを実現させるのである。作主している識(意根)の願いは実現しやすいが、意識の願いは意根の同意を経て、意根が主宰となって実現されるのである。

入地以後、意根は一部分の煩悩を断除し、さらにいくらかの煩悩を降伏して、一分あるいは数分の平等性智へと転じる。意根は六塵に対して貪愛などの心行こそないものの、清浄な意欲、願い、そして願力を持っている。意根が煩悩の心所を持つにせよ持たないにせよ、意根には確かに達成しようとする願いと意欲があるのである。

——生如法師の開示
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