七覚支概説
七覚分略説
七覚分はまた七覚支とも呼ばれ、具体的には念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支に分けられます。
第一に念覚支。ある法を修学し、心をこの法に縁り続け、雑念なく集中する時、これが念覚支の成就です。
仏法修学の初期段階では、ある法に縁って修行しますが、縁り続けるうちに心が散乱し、法を念じ続けることができなくなれば、念覚支は未成就です。例えば浄土念仏法門を修する場合、最初は仏号に縁りますが、次第に散乱して仏号も往生の念も失われるなら、念覚支は成就していません。ある程度修行が進み、修練が綿密になると、法を念念忘れず、念覚支が成就したことになります。
例えば四聖諦の理を修行する際、心が常に四聖諦の理を観察し、苦集滅道の理を思惟し続けるなら、念覚支は成就します。初めは四聖諦法を念じず、観察も思惟もしなかった者が、次第に苦集滅道に心を縁わせ、縁に触れるごとに即座に「この法は苦である」「苦は如何にして生じるか」「如何に修道して苦を滅するか」と念じ続けるなら、四聖諦法の念覚支が成就したと言えます。
念覚支は七覚支の最初の段階であり、仏法修学の基本条件です。正理を念念不忘でなければ精進も喜楽も軽安も生じず、正理に対する決択もできず、世俗の煩悩に縛られたままとなります。
例えば菩薩六度を修行する際、常に自心を点検し、布施・持戒・禅定・般若の修養状況を観察し続けるなら、念覚支は菩薩六度に安住している状態です。念覚支が成就すれば、心は法と相応し、自然に仏法を証得する方向へ向かいます。
念覚支は仏道修学の初級段階です。これが成就して初めて、後の各覚支が成就します。自己の念覚支の有無を常に観察し、未成就なら修養を強化し、成就したら更に維持向上させなければなりません。
第二に択法覚支。自己の法に対する弁別力を観察し、正邪・大小・仏法中の位置付けを明確に判断できるようになれば、択法眼が生じた証です。師匠の説法が大乗か小乗か、正道か邪道か、仏意に適うかを弁別し、適切な修行次第を選択できることが求められます。
第三に精進覚支。正しい道を選択した上で、布施・持戒・忍辱・禅定などあらゆる面で精進します。意識の表面的な精進ではなく、意根の内面的な精進が真の精進です。
第四に喜覚支。正しい方向で精進を続けると、法悦が生じ身心に軽い解脱の功徳が現れます。長期間喜覚支が生じない場合は、修行方法や精進度に問題があると判断されます。
第五に軽安覚支(倚覚支)。喜楽が生じると五蓋が軽減され、身心が軽安を得ます。禅定の前兆として、身体が軽快になり心が安らぐ状態です。
第六に定覚支。軽安が成就すると禅定が生じ、身心ともに安定します。未到地定が具足すれば、行住坐臥において定を保ち、深く法義を思惟できるようになります。
第七に捨覚支。禅定によって雑念が除去され、平等捨の心境が現れます。苦楽・覚観・散乱を捨て、心が清浄澄明となる最終段階です。
七覚支は相互に連関し、前段階が後段階を生起させます。初めて我見を断つ者は各覚支を堅固に修めなければなりませんが、過去世の修行者再来は速やかに覚支を成就します。
仏は七覚支を内覚支(意根)と外覚支(意識)に分け説かれました。真の成就は意根への熏習を要し、意識のみの修習では不十分です。例えば念覚支は意識の外念覚支と意根の内念覚支が共に成就して初めて持続します。
各覚支は最終的に捨て去られ、一切の執着を離れた無念無想の境地に至ります。仏法は衆生の無明を破るための手段であり、無明が尽きれば法自体も捨て去られるのです。