ある人が文殊師利菩薩に尋ねました。生は無生の理であると明らかに知っているのに、なお生に縛られるのはなぜか、と。文殊菩薩は答えました。その力がまだ充たされていないからだ、と。
「明知(明らかに知る)」はどの識か。「其力未充(その力未だ充たず)」はどの識か。明らかに知るのは意識であり、意識はいくらかの道理を知ってはいるものの、それは役に立たず、やはり生死に繋縛されるのは、意識は主となって決定権を持つことができないからです。その力がまだ充たされていないのは意根であり、意識の思想観念がまだ意根にまで達しておらず、意根が認可しなければ、現状を変える力はありません。鍵となるのは、意根がこの真理を認知できるかどうか、惑を断じ執を断じられるかどうかです。意根が惑を断じ執を断じてこそ、はじめて生死の牢獄から出離することができるのです。
ここから私たちは、仏法の道理のなかには、たとえば断我見の理や明心見性の理のように、単に意識の表面で知っただけでは、生死の問題を解決できないものがあることを知ります。意根の奥深くまで入り込み、意根に道理を明らかにさせてこそ、自分を変え、生死の問題を解決することができるのです。なぜなら、すべてのことは意根が主となり、意根が決定権を持つからです。意根には力があり、意識にはそれほど力がなく、当家の主となって決めることができないためです。私たちが五陰という一家の生死輪回の問題を変えたいなら、一家の主を説得しなければならず、単に家族の一員を説得しただけでは足りません。意根こそが一家の主であり、五陰世間のことはすべて意根が決定権を持つのです。意根の力が充たされたとき、まず我見を断じ、次に我執を断じれば、後世には生死に縛られることがなくなります。
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