衆生无边誓願度
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日常法話

2018年10月27日    土曜日     第3開示 合計962開示

断我見(satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa)と明心の証悟はすべて意根が自ら証得したものである

我とは、意根(第七識)を指します。意根が五陰のうちの色陰を我とみなし、受陰を我とみなし、想陰を我とみなし、行陰を我とみなし、六識の識陰を我とみなし、また自分自身を我とみなすため、はじめて我見が生じるのです。六識は依他起性であり、輾転して生じるもので、意根(第七識)に利用される一つの道具です。ちょうど五陰全体と色身のうちの頭や四肢の関係と同じで、五陰はいつも色身のそれぞれの部分を我とみなします。同理(おなじように)、意根は無始劫以来ずっと五陰のそれぞれの部分を我とみなしてきており、もちろん第八識の功能作用(はたらき)も我とみなしてきました。

意識の我性は微弱で、意根の我性の強さには遠く及ばず、比較的断りやすいものです。一般に、意識は五陰無我の道理を少し熏習し、少し思惟すれば、道理を明らかにすることができます。一方、意根の思惟観察力は弱く、さらに無始劫以来の無明は深厚で、その智慧をひどく遮障するため、道理を明らかにすることが容易ではなく、意根の我見はきわめて断ちがたいのです。

古来より今日に至るまで、真に我見を断った者はきわめて少なく、鳳毛麟角のようです。たとえ佛陀(ブッダ)在世のときでさえ、証果した人の割合はそれほど大きくはありませんでした。したがって、我見とは主に意根の我見を指し、断我見には必ず意根が自ら意識とともに無我の道理を参究し、現量で五陰が確かに無我であることを観察できてこそ、はじめて真に我見を断ったことになるのです。

もし単に意識が复读機(リピーター)のように、読誦・暗誦という形で文字を読誦するだけで、定の中で深細に思惟観行しなければ、意根は永遠に熏習を受けられず、道理を明らかにできません。これは単に意識が文字の表面上で行う浅薄な働きにすぎず、せいぜい解悟として五陰無我を解することはできても、五陰無我を実証することはできず、したがって我見を断することはできないのです。

断我見が意根の自らの証得であるなら、明心の証悟もまた意根が自ら真心第八識を証得することなのでしょうか。答えはやはりそうです。なぜなら、無始劫以来、意根はずっと五陰六識の功能作用を我とみなし、また第八識の功能作用も我とみなしてきて、神様自身が何者でもないことを知らず、一方では第八識に依拠し、他方では五陰六識に依拠することによって、はじめて神様自身のいわゆる我の功能作用があり、三界の中で生存し、神様の虚妄なる我の功能作用を成就してきたからです。

では、意根に無明を断除させ、仏道を成就させるには、一方では五陰という大樹を切り倒して、神様に依拠するものをなくさせ、他方では神様に真実の第八識を証得させ、一切の法はすべて第八識のなすところであって、自分自身の功能作用ではないと知らせなければなりません。こうして意根は法界実相をはっきりと認識し、無明は少しずつ破除され、我執と法執は次第に断し尽くされて、徹底して無我となり、最後には仏世尊となるのです。

——生如法師の開示
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意識の力のみでは我見を断するに足りず

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業種枯萎の道理について(一)

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