衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月13日    金曜日     第2 回の開示 合計1914回の開示

中有において悟りを開くことは可能ですか?

問:人が臨終の際に、五陰(物質的な色身と妄心:所謂る受想行識)が幻滅し中陰身が未だ生じていない時、残るものは真如であると言う者がいます。これが父母未生以前の本来の面目であり、実は「死後は何か」「死後の面目は何か」と参究するように改めることも可能だという説は、やはり正しくないのでしょうか。

答:この説は当然ながら正しくありません。死後中陰身が現れない時は真如ではなく、七・八の二識の和合体です。意根は四果阿羅漢でなければ決して断滅しません。この時は悟ることはできず、意識が存在せず、意根のみでは十分な働きがなく、両者を同時に参究しなければなりません。さらに業障の遮りがないことが必要です。

生きている間に死後の面目を参究することは可能ですが、比較的困難です。死後も真妄が和合しており、真のみが存在するわけではないからです。死屍を引きずるのは誰か、という公案を参究する方が容易です。

中陰身が生じる前には第七識と第八識が存在します。この時真如のみが存在すると考えるべきではありません。真妄が和合している時、妄を真と見做してはならず、真妄和合は真如ではありません。このような悟りは推測や想像による悟りであり、悟らないことと違いがありません。

中陰身が生じる前には第七識と第八識のみが存在します。この時は悟ることが不可能です。意根単独では第八識を認識できず、六塵すら具体的に弁別できません。ましてや第八識のような隠微なものをどうして認識できましょうか。仮に中陰身が現れ意識が生じても、悟ることは極めて困難です。意識が非常に微弱で弁別力が極めて低いため、どうして悟ることができましょう。

我見を断じていない者は死後、中陰身が生じていない時に特に恐慌を覚え、自我が消滅することを恐れます。この時もなお五陰十八界を我と認めており、第七識がどうして五陰六識が滅びた後の空白を真如と認めることができましょうか。全く不可能です。むしろ前念不生・後念不起の中間の空白の方が悟りやすいと言えます。この時は畢竟意識の知が存在し、なお禅定の中にあるからです。

——生如法師の開示
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