真の念仏三昧とは、意識が十分に染まり意根を導いて念仏し、意根によって成就された念々が全て仏となる三昧の境地である。これは本心の仏を証得した定慧円融の境地であり、定もあれば慧もある。修習の全過程において、意識が意根を導き、仏菩薩の形象を念じることから真の仏菩薩の真如を念じるに至り、最後に意根が真如三昧を成就する。意識は念じずとも意根が念じ、甚深なる禅定が現れ、その後智慧が生じ、真如自性を証得するのである。
その中の禅定は動静を結合し、両面に偏ることがない。最初は静座中に修める方が容易で、心が静まるのが早く、静中の修持に功夫が生じれば、活動中も心が安定しやすく、専心一意となる。静は動を養うからである。動静結合の中で一心に念仏し、定力の修持が出来た後、般若の智慧も幾分具わり、念仏する者は誰かと参究できるようになる。ここで転換が必要となり、禅定に智慧の観照を加える。これを観行ともいう。心念が仏念から疑念に転換し、深く疑い続け、他の念頭が無くなる。ある日突然、疑情が開け、念仏する者が誰かを参究し得るのである。
多くの人はこのような苦労を厭い方法も知らないが、一部の者は近道を選び、小賢しい分析を試み、情思意解に至る。結局「念仏するのはあれではないか」と考えるかもしれない。如何に考えようと、そのものは至る所に存在し、一切の法に遍在する。仏は既に明らかに説かれたが、念仏するものと称するものは実に八識の和合作用であり、真妄混在する。どうして即ちあれと言えようか。或る者は「行住坐臥の中にこそある、私は参究し悟った」と推論する。
しかし行住坐臥において八識のどれを欠いて成り立とうか。八識和合の法を第八識単独の法と見做すのは明らかな凡夫の知見であり、禅宗の明心証悟ではない。今世で言う開悟は、ほぼ全員がこのような悟りで、百パーセント近くが誤解の「誤」であり、自らを誤るに過ぎない。自らを誤った後は煩悩がますます熾盛となり、我慢が顕著になり、貪瞋痴の煩悩が憚りなく現行する。二つの我が出る故に、必然的にこの結果を招く。真に悟った者は我見を断じ、頭を垂れ、身心軽安となり、煩悩が薄れ、定慧が増長し、心は空無為となる。
故に真の悟りを得んとし、自らに責任を負うならば、真の功夫を下し、真参実究すべきである。便宜を図り虚勢を張るべきではない。
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