意根は主導する識であり、五蘊十八界における一切の事柄は大小を問わず、全て意根が主導し指揮を執るものである。誰も意根に代わることはできず、意識ですらも不可能である。意識の思惟判断が意根の選択を導くことはあれど、最終的に主導権を持って決断するのは意根である。如来蔵も意根に代わって選択を下すことはできず、六識の身口意行を指揮することも、世間法において主導権を握ることもできない。
如来蔵は無我性を具え、世間法を見ることがないため、その知見は全て非世間的な性質の法に限られる。故に世間的な性質の法を主宰することは叶わず、世間法を造作するよう指揮することもできない。意根のような我ある心行を持たず、我執なきが故に主導権を取ることはない。
修行とは意根の無明を除去し、五蘊十八界が我ならざることを悟らせ、真の主人公が如来蔵であることを知らしめることである。一切の法は如来蔵が現出した仮の相であって、意根自身の所有物ではない。かくして意根は漸次に我執と法執を断じ、執着を尽くし切った時、即ち成仏するのである。
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