衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月23日    月曜日     第2 回の開示 合計1929回の開示

意根は禅定に相応するか

智慧は意識の慧のみならず、意根の智慧をも指します。意識の慧によって意根の智慧が引き出され、最終的に意根に定着して種子に蓄積され、後世において縁に触れて種子が発芽すれば、再び大智慧を生じるのです。禅定がなければ、意識のみが単独で智慧を持ち、意根は智慧を持つことができません。意根は攀縁が多く、精力を集中して思量・参究することができないため、法を証することができず、大小乗の無我を知ることができず、智慧を生じることができないのです。

意根に智慧がなければ、我見・疑見・戒禁取見を断じることができず、後の生死の結縛も断じることができません。六識の修行を正しく理に適った形で指導することもできず、意識がどれほど智慧を持っていても、大した役には立ちません。意識が如来蔵を真実と認め、一切の法を幻化とし、五陰を無我と認識しても、意根が理解しなければ無明を破ることはできません。無始無明が依然として存在すれば、引き続き六識を引き連れて無明の業を造作し、貪瞋痴の煩悩を薄めることも、ましてや降伏・断除することもできず、心解脱と慧解脱を得ることができず、一念無明と塵沙無明を断尽することができません。三界を出離することも、究竟成仏することもできないのです。

解脱は主に、意根が三界法に対する生死の係縛、および一切の法への執着と係縛から解き放たれることを指します。小乗における意識と意根の慧が満足すれば、それが慧解脱の四果阿羅漢となります。大乗における意識と意根の慧が次第に円満すれば、識を転じて智と成し究竟成仏するのです。故にこの慧は最終的に意根に帰着しなければなりません。

大智慧が意識のみならず意根にも現れる以上、識転成智には意識の識転成智と、さらに意根の識転成智があります。では禅定はどの識に定まり、どの識と相応するのでしょうか。意識と意根は共に禅定を持ち、禅定と相応します。まず意根が法を意識に託して思惟させると、意識は最初散乱していますが、次第に定力を得て、その思惟観行が意根の関心を引き起こし、注意力が次第に意識の思惟内容に集中するようになります。こうして初步的な定が生じ、意識も次第に思惟観行に専念できるようになります。意根の注意力が増すにつれ禅定は深まり、意識の集中力が高まるほど思惟は緻密になり、意根はこれに依って深細な思惟を行い、理を明らかにして法を証するのです。これは観行によって禅定を引き起こし、さらに観行力を増強する方法です。

他方、意識が定を修めると、意根の攀縁を減少させ、意念を集中させます。その後、意根が法義を思惟する決意をすれば、意識は注意力を集中して一つの法義を思惟観行します。意識の観行内容は刹那刹那に意根へ伝達され、意根は伝えられた情報に対して勝解を得ることもあれば得ないこともあります。智慧が生じるか否かは、三十七道品が具足しているか、戒定慧の修行状況、煩悩が降伏されているか、心性が調柔であるかなど、多くの要因によります。

専一に思惟し深く緻密な観行ができるということは、意識と意根の両者が注意力を集中でき、一定の定力を有していることを示します。六識に禅定が現れる時、意根には必ず定があります。意根に定がなければ六識の禅定は現れ得ません。六識が念有り無しは意根によって決定されるからです。意根が様々に攀縁し六塵境界を全て了別しようとする限り、六識が無念であることや一つの境界に専注することは不可能です。

六識が仏法を薫修し、もし意根まで薫染させ影響を与えれば、意根もまた定を持つようになります。意根の定とは、まず意根が法に定まり、五陰無我という法に定まって精進修学し、三十七道品に定まり、あるいは菩薩六度に定まることを指します。意根が精進を起こせば六識も精進できます。意根が懈怠すれば六識は精進できません。もし意根が三十七道品を具足すれば、六識も必然的に具足します。意根は六識を監督・統制する指揮官であり、六識は必然的に意根の指揮と調遣を受けます。故に修道の要諦は全て意根にあるのです。

意根が作意して法に定まれば、六識も法に定まって散乱しなくなります。そして法において六識は作意観行できるようになります。意根がどこに定まるかによって、六識もそこに定まります。六識は意根に随って転ずるからです。意根の指揮棒は刹那刹那に六識を指揮します。意根が定まらなければ、指揮棒を乱れさせてあちこちを指し示すため、六識が定まることは根本的に不可能です。意根が仏法を精進修行すれば、六識も精進できます。故に定とはまず意根の定、意根と相応する定を指すのです。

意根が仏法に定まって修行し、常に五蘊の虚妄を観じるなら、六識は観行できるようになります。意根が参禅を望み、如来蔵の法が重要であると認識し証得を求めれば、意根は六識を督励して参禅させ、六識は参禅という法に定まって大乗法を精進修行できます。故に意根が定まらなければ、六識に定はありません。専ら座禅によって修得される四禅八定において、定とは主に誰の定を指すのでしょうか。もちろん意根の定です。意根が降伏せず、座禅に定まらず、依然として諸法に縁り、他の法を攀縁し雑念を抱くなら、六識が座禅によって定を修め、心念を滅却することは不可能です。

故に四禅八定の定であれ、法に定まる定であれ、法に専注する集中力は、主に意根を指します。その後六識が定まり、心を静め、覚観を滅却し、ついには識心も滅却するのです。意根が動けば六識も動きます。意根が指し示す方向に、六識は必ず従います。六識を降伏させるには、必ず意根を降伏させなければなりません。五陰を降伏させるにも、まず意根を降伏させる必要があります。

成仏も主に意根を薫成し、意根に一切法を証得させ、一切法を了知させ、無始無明と塵沙無明惑を滅尽させ、意根に戒定慧を円満具足させることによって達成されます。ここで言う衆生とは誰を指すのでしょうか。まさに意根です。故に維摩経は「衆生の心行、如来蔵は衆生の心行を了知する」と説いていますが、これは主に意根の心行を了知することを指します。衆生とは即ち意根であり、意根こそが衆生なのです。意根が五陰を我と見做すなら、意根の我見を断じなければなりません。

——生如法師の開示
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仏法の修証における肝要な部分とは、戒・定・慧の三つの無漏学のことである。

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